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わしひとりを めあての 本願のありがたさ [仏・法・僧]

今朝は五月の第一日曜日ですので月例法話会が勤まりました。初夏のような爽やかな天候に誘われて大勢のお参りをいただきました。

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わしひとりを めあての 本願の ありがたさ
花岡大学


これは本願寺派僧侶であり児童文学者でもあった花岡大学氏が江戸時代初期の妙好人・清九郎を紹介するにあたり、清九郎が語ったであろう言葉として記されたものです。

妙好人清九郎は奈良に生まれ、その篤信ぶりが世間に知られ「大和の清九郎」と呼ばれました。
まだ若き頃に妻に先立たれたことが契機となり聞法に励まれたそうです。

真宗においてお念仏のお心をいただくことを「獲信(ぎゃくしん)」とか「廻心(えしん)」と言いますが、この清九郎にとっての獲信を自身の言葉で語られたのがこの「わしひとり めあて」ということなのでしょう。

歎異抄には親鸞聖人の言葉としてこのような一節がございます。

聖人のつねのおおせには、「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐そうらいし

表題の清九郎の言葉とぴったりと重なりますね。これは清九郎の言葉として、そこには花岡大学氏その人の信心を賜った喜びの心が表わされているのではないでしょうか。

これは私の思い付きですが、この清九郎の言葉を私たちひとり一人が味わうにあたっては、これをそのまま読むのではなく、この「わしひとり」というところを自分の名前に入れ替えてみてはいかがでしょう。
つまり私でしたら「大河戸悟道をめあての本願のありがたさ」となります。
それも是非各人それぞれ声に出して読んでいただくと更によろしいかと存じます。


私とは誰? [仏・法・僧]

毎月第一日曜日は月例法話会です。
5日も雨がシトシトと降る中、たくさんお参りしてくださいました。ありがたい事です。
毎回その月の真宗法語カレンダーを訪ねております。

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出会わなければならない ただひとりの人がいる それは私自身
広瀬杲(ひろせ たかし)


普通、私のことは私が一番分かっていると思うのですが、ここでは「出会わなくねばならない」とおさえてあります。言い換えれば「私自身に出会わないまま死んでしまうような空しい生涯で終わってくれるな」という願いの込められた言葉であります。

清沢満之(きよざわまんし)という浄土真宗に近代において新たないのちを吹き込んだとされる方の言葉に
「自己とはなんぞや、これ人生の根本的問題なり」というものがあります。
ここで「自己」と云われているところに注意しなくてはならないでしょう。
普段私が自分とか私と言う場合それは間違いなく「自我」というものであろうと思います。それは「自我根性」といわれる、我こそは、自分こそ、自分さえと他を押しのけてでも自らの都合を通そうとする性の我です。
一方、「自己」という場合はこの私をこの世に生まれさせ、生かし続けんとするいのちそのものを言います。

私は生まれてこのかた、自我根性そのままにあっちで頭をぶつけ、こちらで膝をついてばかりの人生を生きておりますが、自分のいただいたいのちと向き合うことなどなく今日まで来てしまいました。

この度の法語で掲げられている「私自身」はこの「自己・いのちそのもの」のことであり、そこに出会わなければこの世に生まれて来た甲斐さえないのと同じであるとお示しくださっているのでしょう。

Gassho to Buddha ガッショー トゥ ブッダ [仏・法・僧]

『英語でブッダ』の続きです。
著者の大來尚順氏が講義のウォーミングアップのためにと配られたのは、アメリカの真宗寺院で行われている日曜学校(日系人の子ども達のためのものだそう)でお勤めの代わりにみんなで大きな声で歌う宗歌の歌詞。
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Gassho to Buddha (仏さまに合掌)

この四句ずつがひとつのメロディとなっていて、それらが全部で10パートです。

この中で私が一番惹かれたのは
「When I call Buddha's Name,    
It's Buddha calling me.
His voice and my voice are one.
I gassho to buddha.」

「私が仏様の名前を呼ぶときは
仏様が私を呼んでいるのよ
その声は私の声とひとつとなって
私は南無阿弥陀仏を称えます」(悟道訳)

英語で表現されることによって、主語と目的語がハッキリします。
「仏様の呼び声」を「His voice」なんて言ってもらって
ようやくその意味が響いてきます。




生きてゆく道 [仏・法・僧]

昨日の朝は月例法話会でした。
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死んで往ける道は そのまま生きてゆく道です (東 昇)


東昇氏は京都大学名誉教授というウィルス研究の科学者であり、幼い頃より真宗の御教えに親しまれた念仏者でもありました。

「死んでゆける」と聞くとまるで「死をいささかも恐れない者」であるかのようにとられるかもしれませんが、東氏の言葉は「往ける」と往生の「往」の字が使われています。つまり西方極楽浄土へ往生するということが確定することを指しています。
往生浄土が確実になることが決して死後の約束というものではなく、今生きている私に「生きてゆく道」を開いてくださることとお示しくださっています。

正に親鸞聖人の教えを聞いて聞いて聞き抜かれた東氏のいただかれた世界なのでしょう。

真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。 このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり。

これは親鸞聖人のお手紙の一節です。真実信心とは阿弥陀様のお心に触れたということ。それは「必ず救う、決して離さぬ」とのお心です。この私をこのままに引き受けて下さることを知り、この私の思いあがりも消え、至らぬことへの不安も一切不要であったと、任せられないまま任せるしかない私となることで、ようやくこの世を仏さまと共に歩んでゆくことが始まるのです。



お念仏は誰のもの? [仏・法・僧]

一月二日の修正会では、月例法話会のように真宗法語カレンダーを訪ねてまいりました。

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称えるままが つねに御本願のみこころを 聞くことになる 
香樹院 徳龍


口に「ナモアミダブツ」と称えることをお念仏と申します。
そのお念仏を称えるということは修行のひとつであることに違いないのですが、それは誰の修行なのでしょうか?
「そりゃあもちろん、称えているその人の行に決まっているでしょう」とおもわれるでしょうか?
そうですね、私が自分の意志でもって称えているのだから、私の修行に違いないという風に理解するのが普通だと思います。

ところが徳龍師はそれは違うと仰るのです。
私は自分の意志で称えているつもりかもしれないが、それはこの私に称えさせんとはたらきがあればこそ、私この口に「ナモアミダ」と出て下さっているというのです。

(ここは真宗の要といってもよい大切なところですね、非常にデリケートな問題ですので慎重にお伝えしなければなりません。つまり私の言葉によって却ってお念仏のおこころから離れてしまうという危険性をはらんでいるということです。)

子どもは何かあるとすぐに「ママ~」と大きな声を上げますが、これはその子どもがそうした方が良いだろうと判断して「ママ~」と呼んでいるのでしょうか?
その子どもに母親がずっとずっと愛情を注いできたからこそ、その子どもはその母親を呼ぶのであります。
子どもの母親を呼ぶその声は、その子どもの口から出るものですが、それはそのまま母親の愛情の証しであります。

われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの親のよびごえ (原口針水)

子どもが親の愛情に気付く時が来るように、お念仏を称える中に阿弥陀様のお心に気付く時がやってきますよと、この法語は教えて下さっているのでしょう。



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