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行き先がわかれば・・・ [仏・法・僧]

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行き先がわかれば 行き方がわかる 往き先がわかれば 生き方がわかる


この修正会の時にお話しさせていただいたことを簡略にご紹介します。
この法語、なんか語呂合わせのようで面白いのですが、内容はなかなか深いものだと思います。
年末にSNS(facebook)で見つけそのまま掲示板に書かせてもらいました。

「行き先」によってその準備や心構えが変わってくるものです。
山の頂上を「行き先」とするならば、靴や服装、そして体調も整えておかなくてはいけません。
海外を「行き先」とするならば、資金やスケジュール管理、そしてなによりもパスポートの用意は欠かせません。こうした準備も「行き方」のひとつであります。

さて、「往き先」とは、往生の往という字を用いているように、私のこの生涯を終えた後ということですね。自分はどこへ往こうと考えているのでしょう。
お浄土を目指そうなどという殊勝な思いは、この私には持ち合わせておりません。
それでも地獄に落ちたいと願う人もいないでしょう。

もし仮に地獄に落ちてみようと思う人がいたとしたら、地獄に落ちるためにはどのような生き様をすればよいか、案外想像がつくのではありませんか?
盗んだり、うそをついたり、傷つけたり、殺したり・・・。
あれあれ?
私たちの生活って、奪い合うながら生計を立て、おべんちゃらを言い合って世を渡り、批評批判を得意として他を傷つけ、ものを食うというのは他のいのちを殺すことであります。
地獄一直線の生活をしている私でありました。

親鸞聖人は地獄一定(じごくいちじょう)といって、自分は地獄行き間違いないと仰り、そんな私だからこそ阿弥陀様は必ず救うと誓ってくださったとお念仏を喜んでいらっしゃいます。

私の「往き先」が地獄とわかればこそ、お念仏をよろこぶ生き方がわかってくるものであります。

成道(じょうどう) [仏・法・僧]

今日、12月8日はお釈迦さまがお覚りをひらかれた日といわれております。
一国の王子であったシッダールタは29歳の時に城を出て、ひとりの沙門(修行者)となり、修行に打ち込まれました。修行は厳しさを極めシッダールタの心も体もやせ衰えてしまったのでした。
そんな時、一人の娘から施された乳粥を口にすると生気がみなぎり、やがて覚りが目前であると感じられたシッダールタは大きな樹のもとに座り深い瞑想に入られました。
やがて覚りへと近づく様子に気づいた悪魔が、それを阻害しようとやってきます。
悪魔はシッダールタの欲望を煽ったり、恐怖心によってつぶしてしまおうと躍起になります。
シッダールタはいくつかの前世において積まれた功徳を大地に証明させんと右手をそっと大地に触れます。
大地は大きく揺れ動きその証としました。悪魔は恐れ降参し、シッダールタは覚りをひらいたといわれます。
ここに人類史上初めての仏陀(覚った人)が誕生したのです。

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日本ではあまり見られませんが、お釈迦様の覚りをひらいた姿としてこうした右手を大地に触れているものがあります。この姿を降魔印とも触地印ともいわれ、先の悪魔を降参させたことと覚りをひらいたことを象徴しています。

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そして正太寺本堂の今月のはんこはこの「降魔印」をかたどりました。ハンコの隣にこのお釈迦様の物語の一節も紹介したカードが置いてあります。

ただよくつねにみ名となえ [仏・法・僧]

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ただよくつねにみ名となえ ふかきめぐみにこたえかし


六月となり第一日曜日は月例法話会でした。ここ東海地方も梅雨に入ったとのこと、今朝は正に梅雨の空といったショボショボ雨の天候でした。それでもお参りの方はいつになく多く、ありがたい限りです。

さて、今月も法語カレンダーをたずねて参りますが、これは正信偈ですと唯能常称如来号(ゆいのうじょうしょうにょらいごう) 応報大悲弘誓恩(おうほうだいひぐぜいおん)にあたります。

ここに「称」という漢字があります。これを「となえる」と読みます。
「となえる」という時にはこの「称」ともうひとつ「唱」とがありますが、真宗では「称」の字でもって、お念仏を称えると表記します。
これは親鸞聖人が深くこだわりを持ってみえたからです。一念多念文意という書物には「称」についてこのように書かれています。
「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へうまるともうすこころなり。
「称」の字の旧字は「稱」ですが、これは手に天秤ばかりを提げている形を表しているそうです。
つまり私が「南無阿弥陀仏」と口に称えることが、仏様の願う心に釣り合っているということなのでしょう。なぜなら「南無阿弥陀仏」は言葉となられて、私のもとまでやってこられた仏様なのですから。

不退のくらい自然なり [仏・法・僧]

今月の法語カレンダーより、和訳正信偈の一節です。
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弥陀の誓いに帰しぬれば 不退のくらい自然なり


高田派でもっとも親しまれているご和讃がこちら、龍樹菩薩を讃嘆された一首。今月の法語にピタリと重なる内容となっています。
「不退のくらいすみやかに 得んとおもわんひとはみな 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」

「不退のくらい」とは、菩薩の修行がいよいよ完成目前にして、ここまで来たならば決して退転する(落っこちる)ことはないという領域のこと。それは厳しい修行を続けてきた者にとっては、この上なく喜ばしいことなので「歓喜地」とも呼ばれます。
そんな不退のくらいが、この私にも手の届くことになると説かれているのですが、それはどういうことなのでしょうか。
親鸞聖人は人間(自分)についてこのようにご覧になっています。
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して出離の縁あることなし」
つまり、罪重く、煩悩とひとつになったような私は永遠にこの迷いの世界から抜け出ることなどできないであろうということです。
その私が阿弥陀仏の願力によって、迷いの世界からさとりの世界へと往生することが、生きている間にも確定するということです。

「自然(じねん)なり」とは、もうすでに阿弥陀さまはこの私を抱きとめてくださっているということです。
これから救うとか、今から助けるというものではありません。
「もう、助けたぞ」という声が「南無阿弥陀仏」であります。


難行・易行 [仏・法・僧]

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陸路(くがじ)のあゆみ難(かた)けれど 船路(ふなじ)の旅の易(やす)きかな

和訳正信偈の一節です。元の偈文は「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽」であります。
今月と来月の法語は共に七高僧第一祖、龍樹菩薩を称えたものとなっています。
龍樹菩薩は紀元2世紀ごろ(釈迦滅後500年ほどのち)にインドに生まれました。

大乗仏教の祖ともいわれます。大乗仏教というのはインドにおける仏教復興運動のようなもので、自利利他円満あらゆるものを仏とならしめんという教えをあきらかにされました。

十人十色、個々それぞれ個性も能力も性格も異なる者たちを一様に救う、覚らせるにはどうしたらよいのでしょう。龍樹菩薩は仏道を二つの道に分けて説かれました。ひとつは自分の足で一歩一歩歩く陸の路。
もうひとつが川を船に乗せもらうという水上の道。
陸路を歩くことは個人の努力次第という厳しい道です。それに対して船に乗せてもらえば老若男女、その違いも問わず誰もが同じく救われることができます。

この船の旅こそが阿弥陀様がご用意くださっている念仏往生の道であります。


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