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仏法とはなにか? [仏・法・僧]

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世俗の論理の行き詰ることを教えるのが仏法 (栗山力精)


毎月第一日曜日の朝は正太寺月例法話会です。
10月も大勢お参りいただきました。
さて今月の法語カレンダーを訪ねて参りましょう。

「世俗の論理」とはいわば「道徳」と言ってもよいでしょう。辞書にはこのようにあります。

人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。

「つまり人をして正しい生き方を実践し、住みよい世にしてゆきましょう。悪しき生き方をしては悪しき世になってしまいますよという論理ということです。」

でもこんな法語もあるのです。
「悪い事をしてはいけない。三歳の子どもでも知っているが、80歳の老人でも守ることはできない」
あの植木等が歌ったスーダラ節の「わかっちゃいるけど、やめられない♪」のことですね。
どれほど正しいこと、優れたことであっても、要はそれを実践する人間の問題を忘れてはいけないということです。

仏法は仏さまの法(教え)でありますが、それは仏さまから見た人間の在り様でもあります。
人が信仰を持つということは、仏さまの眼をいただきながら生きてゆくということです。決して信仰に依って私が優れた者になったり、心美しくなったりするものではありません。

真宗の優れた先生に藤原鉄乗師がいらっしゃいました。師が私たちが仏様を信仰するにあたり勘違いしがちな七つの項目を掲げていらっしゃいますので、ここにご紹介しましょう。

信心七箇条 藤原鉄乗(ふじわらてつじょう)師

一、我々は救済を「奇跡」に求めることはできない。

二、我々は救済を「陶酔」に求めることはできない。

三、我々は救済を「心の状態」に求めることはできない。

四、我々は救済を「不足物の補充」に求めることはできない。
(○○さえあれば)

五、我々は救済を「邪魔者の除去」に求めることはできない。
(○○さえなければ)

六、我々は救済を「精神的欠陥の改善」に求めることはできな
い。(精神修養)

七、我々は救済を「社会の改良や革命」に求めることはできな
い。

本願の呼び声が聞こえる [仏・法・僧]

今朝は月例法話会でした。
天候不順がたたってか、若干参詣者は少な目。
今月の法語カレンダーです

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煩悩の嵐の中にも念仏において 本願の呼び声が聞こえてくる 正親含英(おおぎがんえい)


私はこの法語を読み、ふっとイメージしたのは善導大師が説かれた『二河白道(にがびゃくどう)の譬え』でした。
これは念仏者の歩みをひとりの旅人に譬え、真実なる仏様の世界に近づく障碍となる私の煩悩を、行く手を阻む火の河(怒りの心)と水の河(欲望の心)と表します。

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底なしの二つの河にたじろぐ旅人をめがけて群賊悪獣が襲いかかろうとしてくる絶体絶命の状況で、旅人はその二つの河の真ん中に細い細い白い道が向こう岸まで伸びていることに気付きました。しかしその道を火と水がかわるがわる舐めとても歩いてゆけそうにもありません、
旅人がたじろいでいると、背後より「仁者(きみ)ただ決定(けつじょう)してこの道を尋(たず)ねて行け、必ず死の難(なん)なけん」という声を聞きます。と同時に西の岸(お浄土)からは「汝(なんじ)一心(いっしん)に正念(しょうねん)にして直(ただ)ちに来(きた)れ、我よく汝を護(まも)らん」と呼ぶ声がしました。
そうして旅人は心を決め、向こう岸へたどり着くことができたのです。
旅人の背後から「行け」と勧めたのはお釈迦様でした。これを釈迦の発遣(しゃかのはっけん)といいます。
向こう岸から「来たれ」と呼ぶ声は阿弥陀さまでした。これを弥陀の招喚(みだのしょうかん)といいます。
この二尊からの声が無かったならば、旅人は遂に西の岸へ渡ることはできなかったことでしょう。

もしこの旅人の前に火の河、水の河が現れることがなかったならば、旅人はこの声を聞くこともなく、漫然と只々歩むばかりで生涯を終えてしまったのはないでしょうか。

法語の「煩悩の嵐」とは正に私が人生につまづき、その苦悩に責め立てられている状態を指すと思いますが、そんな時こそが「本願の呼び声」に出遇う大切な時なのかもしれません。




今、ここを生きる [仏・法・僧]

連日の猛暑に少々バテ気味でありますが、お盆に向けてテンションは上がりつつあります。
さて先日の日曜日は月例法話会でした。とても大勢お越しいただき本当に嬉しかったです。

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今を生きずに いつを生きる ここを生きずに どこを生きる (大神信章)


「しあわせになりたい」と願う心は誰にでもあるでしょうが、「しあわせになりたい」と願うということは「今、自分はしあわせではない」ということを認めていることでもありませんか?

そもそも私たちが本当に満足するということはあるのでしょうか?
七夕に小学生が短冊に書いた願い事にも「お金持ちになりたい」「有名になりたい」「セレブになりたい」など見られますが、もしそれが叶ったとしても、そこから新たな問題(欲求)が発生すると思います。

本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちゝゝて 煩悩の濁水へだてなし (浄土高僧和讃・天親讃)

親鸞聖人の和讃です。阿弥陀如来の本願力にあうことで、人は本当の満足を得られ、もう空しく一生を終えることはないと仰っています。それは様々な色やにおいをもった川の水も、功徳に満ちた海に流れ込み、清浄一味なる海の水と転ぜられるからであるというのです。

阿弥陀様は私たちに清らかであれ、正しいものであれ、美しくあれなどと注文はつけられません。そのままの私をそっくり掬い取ってくださるのです。
「こんな私じゃ・・・」
「こんなところじゃ・・・」
「こんなことでは・・・」と自分を卑下するばかりでも、私が私を認められなくても、阿弥陀様はそのすべてを引き受けてくださるのです。
「いつかきっと」では不安に苛まれます。

これは以前、池田勇諦先生のご法話の中でご紹介いただいた言葉です。ある念仏者の玄関に掛かっていた色紙の言葉だそうです。

「今が一番いい時 今が一番大事な時」


私はこの言葉を辛くシンドイ時に思い出すようにしています。
それは単なる気の持ちようや心掛けなどではなく、阿弥陀様のまなざしを感じられるからです。




私が私でよかった [仏・法・僧]

今朝は月例法話会。昨晩からずっと降り続ける雨にも関わらずお参りに来てくださる皆さんには本当に感謝するばかりです。
今回も法語カレンダーを訪ねてまいります。

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私が私であってよかったといえる あなたになれ (中島みどり)


今月の法語はともすると自己啓発や自分探し的な言葉と捉えられるかもしれません。しかしこの言葉を記された中島みどりさんのことを知ると決してそんなこととは違うことが分かります。

中島みどりさんは1999年に40歳という若さで亡くなってゆかれました。それは悪性リンパ腫という病気によるものだったのです。当時みどりさんにはご主人とまだ小2と幼稚園生の二人の子どもいらっしゃいました。余命幾ばくもないと知らされることは筆舌に尽くしがたい思いであったことでしょう。
そして幼い頃よりお念仏に親しんで来られたみどりさんでありしたが、この病気を縁として深くお念仏をいただかれたようです。
みどりさんはこの先ずっと一緒にはいられない子ども達のためにたくさんの手紙を残されるのですが、その中に我が子にこれだけは伝えたいとして記された言葉のひとつがこの「私が私であってよかったといえるあなたになれ」というものだったのです。

さて、改めてあなたにお尋ねします。
「あなたはあなたであってよかったと心底思っていますか?」

自分で自分を認められるというのは、実は非常に難しいことなのです。
調子の良い時であれば「俺ってサイコー!」と有頂天にもなりますが、一旦つまづいたり他人から揶揄でもされれば、一瞬にして「ダメダメな俺」に急降下。
もともと自分を量るにしても相対的な基準しか私たちは持っていません。つまり「他人との比較してナンボ」ということです。そんなもの上を見ても下を見ても際限ありませんね。

中島みどりさんはこう子ども達に語りかけます。
いつでも、どんなときでも、「私が私でよかったといえるあなたになれ」と呼びかけてくださる方があった。その呼び声を聞くということが、人間のいちばん大事な願いではないでしょうか。

この(呼びかけてくださる方)こそ、みどりさんがお念仏をいただかれる中で出遇われた阿弥陀如来であります。



欲しい・・欲しい・・欲しい・・・ [仏・法・僧]

昨日は月例法話会でした。とても爽やかな朝となり、本堂前の菩提樹が七分咲きとなり、何とも言えない甘い香りを漂わせていした。
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ものが縛るのではありません ものをとらえる心に縛られるのです  仲野良俊


モノをコレクションするのは人間だけではないでしょうか。
犬や猿が骨や木の実を貯め込んで、それらを眺めてうっとりしているなんて聞いたことがありません。

では人間はそうしたモノを集めたり、手に入れることで満足でするのでしょうか。
勿論、念願の車とか宝石とかが手に入った時には喜びもひとしおでしょうが、そうした満足感は大抵一瞬で果ててしまうものです。

人は常に他と比較するという意識をはたらかせています。この意識が案外厄介なのです。
ひとつ大好きなものが手に入ったとしましょう。犬でもネコでも大喜びします。人間でも同じはずなのですが、人間の場合、自分の手の中にある「それ」と、他の人が持っている「それ」とを比較せずにはいられません。結果、優越感を持つか、劣等感を持つかに分かれてしまいます。
お気に入りが手の中にあったとしてもそうした結果を招いてしまうのが人間であるということです。
なんとも哀しい在りようですね。
そうしたつまらぬ心理作用の根本は自分への執着心です。つまり自分が一番可愛いという心です。それも他と比較して優位に立たないことには良しとできないのです。
そんな人間の姿と念仏者・榎本栄一さんが詩にしておられます。


大悲無倦         榎本栄一
蜘蛛(くも)の張る網のように
私の中の我執(がしゅう)が
ありありとみえるのは
なむ 大悲無倦(だいひむけん)の御光照(おんひかり) 

こんな私を悲しんでくださる心に触れられた喜びでもあります。

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