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本願の呼び声が聞こえる [仏・法・僧]

今朝は月例法話会でした。
天候不順がたたってか、若干参詣者は少な目。
今月の法語カレンダーです

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煩悩の嵐の中にも念仏において 本願の呼び声が聞こえてくる 正親含英(おおぎがんえい)


私はこの法語を読み、ふっとイメージしたのは善導大師が説かれた『二河白道(にがびゃくどう)の譬え』でした。
これは念仏者の歩みをひとりの旅人に譬え、真実なる仏様の世界に近づく障碍となる私の煩悩を、行く手を阻む火の河(怒りの心)と水の河(欲望の心)と表します。

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底なしの二つの河にたじろぐ旅人をめがけて群賊悪獣が襲いかかろうとしてくる絶体絶命の状況で、旅人はその二つの河の真ん中に細い細い白い道が向こう岸まで伸びていることに気付きました。しかしその道を火と水がかわるがわる舐めとても歩いてゆけそうにもありません、
旅人がたじろいでいると、背後より「仁者(きみ)ただ決定(けつじょう)してこの道を尋(たず)ねて行け、必ず死の難(なん)なけん」という声を聞きます。と同時に西の岸(お浄土)からは「汝(なんじ)一心(いっしん)に正念(しょうねん)にして直(ただ)ちに来(きた)れ、我よく汝を護(まも)らん」と呼ぶ声がしました。
そうして旅人は心を決め、向こう岸へたどり着くことができたのです。
旅人の背後から「行け」と勧めたのはお釈迦様でした。これを釈迦の発遣(しゃかのはっけん)といいます。
向こう岸から「来たれ」と呼ぶ声は阿弥陀さまでした。これを弥陀の招喚(みだのしょうかん)といいます。
この二尊からの声が無かったならば、旅人は遂に西の岸へ渡ることはできなかったことでしょう。

もしこの旅人の前に火の河、水の河が現れることがなかったならば、旅人はこの声を聞くこともなく、漫然と只々歩むばかりで生涯を終えてしまったのはないでしょうか。

法語の「煩悩の嵐」とは正に私が人生につまづき、その苦悩に責め立てられている状態を指すと思いますが、そんな時こそが「本願の呼び声」に出遇う大切な時なのかもしれません。




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