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なやみを断たで救いあり [仏・法・僧]

6日は第一日曜日、「月例法話会」でした。
寒さや冷たさを感じない、ほっこりとした朝です。

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信心ひとたび おこりなば 煩悩(なやみ)を断たで 涅槃(すくい)あり

これは和訳正信偈の一節です。元を訪ねますとこちらです。

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 (よく、一念喜愛の心を発すれば 煩悩を断ぜずして涅槃を得)

「一念喜愛心」とは信心のこと。その信心を賜ることで、私たちは煩悩まみれのこの身このままであっても、浄土往生が約束されているという、真宗の救いの根源を表しています。
仏教本来の救いとは、迷いと苦しみの素である煩悩を滅し、涅槃といわれる清浄なる境地に至ることであります。となりますと真宗の救いは仏教から外れているともとられかねません。
しかし、この私に煩悩を慎め、抑えよ、減らせ、無くせと命じられても、抑えることも減らすこともできません。
そんな私を放ってはおけないと、そのまま抱き留めてくださる方がいらっしゃるのです。
その方を阿弥陀如来と申し、その阿弥陀如来の心を信心と申します。

凡夫が凡夫のままに救われてゆくという、真宗の教えのもっとも不思議で、最もありがたいところであります。

いきとしいくるものすべて [仏・法・僧]

昨日は二月の月例法話会でした。朝はまだ寒い中、皆さんお参りくださいました。
今月の法語です。
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いきとしいくる ものすべて このみひかりの うちにあり

和訳正信偈の一節です。もととなる正信偈では「一切群生蒙光照 」( 一切の群生、光照を蒙る。)というところですね。

群生:グンセイと読まずにグンジョウと発音します。辞書にも法語の通りに「生きとし生きるもの」とあるように、人間も含めいのちいただきこの世に存在するものすべてを指します。
群生と似た言葉に「衆生」とか「有情」というものもあります。どちらも迷いの世界に苦しむものたちという意味を持っています。

今月の法語はこの生きとし生きるものは誰彼分け隔てなく仏様の光を蒙っているということを讃嘆しています。
優劣や貴賤といった差別のないいのちをいただいたよろこびを謳っているといってもよいでしょう。
子どもの頃、よく学校で歌った懐かしい歌を思い出します。

「手のひらを太陽に」 やなせたかし詩 いずみたく曲
ぼくらはみんな 生きている 
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている 
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば 
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって  アメンボだって
みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ

さて、正信偈をもう少し読み進めると「群生」が再び出てきます。
五濁悪時群生海
私たちは五濁という濁りの中に浮き沈みするものであるという意味であります。
五濁とは劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁という五つの濁りのこと。
そのひとつ劫濁は時代の濁りという意味です。私も21世紀という時代の濁りの中にあるということです。
先日の中日新聞夕刊に小学校6年生の女の子が野良猫の殺処分されている現実に心を痛め書いた作文がインターネットで評判となり、いのちの大切さを訴える事業がライター、カメラマン、デザイナーによって始まったと紹介されていました。
少女は近所の野良猫が産んだかわいい子ネコたちが保健所に連れて行かれてしまったことをきっかけに、犬や猫がどれほどたくさん殺処分されているのか、その費用は一匹あたりに換算すると、たった78円ということに衝撃を受けた。少女は猫たちを可愛がるだけでいけないことなどに悩んでいることを作文に書いた。

仏さまの光のもと、いのちいただいたよろこびに歓喜する一方で、他のいのちを奪うばかりか一顧だにせず抹殺しているのも私たちであります。

十二のひかり [仏・法・僧]

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十二のひかり放ちては あまたの国を照らします


二日の修正会では真宗法語カレンダーを訪ねました。
今年の法語カレンダーは正信偈の言葉を紹介してくれています。それもいつも勤めなれた漢詩ではなく、和訳した正信偈「和訳正信偈」の中から抜粋です。

普段の正信偈ですと次の箇所が該当します。

普放無量無辺光   あまねく、無量・無辺光、
無碍無対光炎王   無碍・無対・光炎王、
清浄歓喜智慧光   清浄・歓喜・智慧光、
不断難思無称光   不断・難思・無称光、
超日月光照塵刹   超日月光を放って、塵刹を照らす。

ここに12種類の光が説かれています。これらは阿弥陀様の光のもつ様々な功徳を12種に分けて紹介してあるのです。簡単にご案内しましょう。
①無量光 (むりょうこう)
そのはたらきははかり知れない。
②無辺光 (むへんこう)
どこまでも届く光。どんな人であろうとも必ず届く光。
③無碍光 (むげこう)
遮られることのない光。
④無対光 (むたいこう)
不二、無双、比べられる対象がない。
⑤光炎王 (こうえんのう)
ナンバーワン・光の王様
⑥清浄光 (しょうじょうこう)
清らか
⑦歓喜光 (かんぎこう)
苦しみを取り除き、喜びを与える
⑧智慧光 (ちえこう)
智慧を授ける
⑨不断光 (ふだんこう)
いつでも、どんな時でも
⑩難思光 (なんじこう)
人間の思慮は及ばない
⑪無称光 (むしょうこう)
称えようがない。
⑫超日月光 (ちょうにちがっこう)
太陽や月の光を超越している。

これらの功徳はすべて「南無阿弥陀仏」となって私に届いているのです。


私にとってお念仏とは [仏・法・僧]

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生活の中で念仏するのでなく念仏の上に生活がいとなまれる
  
( 和田 稠(しげし))


今月の法話カレンダーは和田先生の言葉です。
私は27歳から二年間、三重県津市の高田本山に見習い職員のようにして席を置いていました。
毎朝7時からの晨朝に出仕、その後は雑用をこなしながら日中、お夕事とお勤めをして、夕方早い時間には解放されるという日々。
本山で知り合った方々からあちこちの法話会に誘われて津市周辺に限らず北は長島町から南は飯南町まであちこちの法座に連れて行ってもらっていました。
そんな法座のひとつに毎月歎異抄を学ぶ会があり、その講師として和田稠先生が来られていたのです。
私の第一印象は「ずいぶんお年を召したお爺さんだこと」といった誠に失礼極まりないものでした。
講義が始まってもしばらくはボソボソ、ボソボソと話していて、何のことかさっぱりわかりません。ところが次第にその声が熱を帯び始め、先生は机の縁を両手でグッと握りしめながら、お念仏の事、親鸞聖人の事、そして現代の世相とそこに浮かぶ私たちの浅ましく、狡猾な在りようを語られるのです。
「この人、なんかスゴイ!!!」と私はすっかりファンになってしまいました。

「お浄土という言葉で言われておる世界は、我々人間が願わずにおれない世界をお浄土と言うんです。願いの中にお浄土はすでにある。願いが我々の生活を開き、我々の片寄った認識を開いてくる。」
和田先生の言葉です。先生の講義録などに目を落としてみますと、その一字一字が先生の声となって聞こえてくるようです。
和田先生と出会う機会を賜ったことは、私にとってこの上ない宝であり、礎であります。
今日の日本の情勢、そして国際社会の動向を和田先生がご覧になられたとしたら、何を語られるだろうかと、思わずにはいられません。

如来の本願 [仏・法・僧]

月例法話会でした。この秋最初の冷え込みとなり、日向が恋しく感じられます。

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如来の本願は称名念仏にあり (藤元正樹)


「念仏(ねんぶつ)」とは文字通り、仏を念ずることであります。それは精神を研ぎ澄まし、集中力を高めるために過酷な行を修めることでようやく仏さまを感じることができるのです。つまり高い能力と志を持った者にのみ到達できる境地だったのです。

それを口に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えることで、仏さまとひとつになれるのですよとお説きくださったのが親鸞聖人の師である法然上人でした。
これが称名念仏というものです。これなら(誰でも)(どこでも)(どんな時でも)仏様といっしょになれる、この上ない教えであります。

この私の口で称えるお念仏に仏さまと相通ずるほどの功徳が備わっているとは信じられるものではありません。誰もが戸惑い、誰もが悩む一点です。

私はこの疑問をこのようにいただいております。
生まれてくる我が子を愛する親の心は、黙っていられるものではありません。大きくなったお腹の中の胎児に向かって「ママですよ~」と毎日のように話しかけ、誕生すれば更に事あるごとに「ママですよ~」と呼びかけます。それは赤ん坊にその言葉が理解できるか出来ないかなど関係ありません。親の願いがそうせずにはいられないからです。
そうしてひと月経ち、二月経ち、数か月が過ぎる頃には赤ん坊も初めて言葉を発します。
「ママ~」と。その呼び声は子どもの口より聞こえたものですが、その言葉をその子に言わしめたのは親の願い、親の愛情ではないでしょうか。
子どもの口から「ママ~」と親を呼ぶその声は、親の願いが届いた姿に違いありません。

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