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衆生にかけられた大悲は無倦である [仏・法・僧]

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衆生にかけられた大悲は無倦である  広瀬杲


2日は今月の第一日曜日でした。月例法話会が催され、たくさんの方にお参りいただきました。
今月の法語カレンダーより広瀬杲(ひろせ たかし)師のお言葉を訪ねて参りました。
ここに「無倦(むけん)」という言葉が出て参ります。これは倦む「いやになる、飽きる」ことが無いという意味です。つまり衆生である私が阿弥陀様のことを忘れていようが、他のことに熱中していようが、更には阿弥陀様を嫌っていようが、阿弥陀様のお心である大慈悲はそんな私を決して見捨てられるようなことはありませんということです。
正信偈の源信大師を讃えられたところに当てはまりますね。

我亦在彼摂取中  我また、かの摂取の中にあれども、

煩悩障眼雖不見  煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、

大悲無倦常照我  大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり。


ただ念仏 [仏・法・僧]

10月第一日曜日の今朝、月例法話会が勤まりました。生憎の雨の中、負けじとお集まりいただいた皆様ありがとうございます。
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ただ念仏せよ 念仏せよ 大悲回向の 南無阿弥陀仏
梅原真隆


今月の法語カレンダーの法語です。梅原真隆師は本願寺派の僧侶で明治・大正・昭和と活躍をされた高徳なる方でした。その梅原師を知るうえでこの上ないエピソードをご紹介します。
兵庫県芦屋市に「芦屋仏教会館」という昭和2年に建てられた洋風の素晴らしい建物があるのですが、その誕生にはこの梅原師の存在は欠かせなかったでしょう。
今日日本を代表する商社のひとつ丸紅の初代社長・伊藤長兵衛氏が芦屋に住むこととなりました。滋賀県近江の生まれの伊藤氏にとって仏法聴聞は生きる上で欠かせないものであったのですが、ここ芦屋にはそうした聴聞のできるお寺が見当たらない。仏さまへのお参りも、聴聞することもできないようなところでは、人間が育つはずがないという思いに駆られた伊藤氏は尊敬する梅原師に相談しました。
「ここにお寺を建てて、みんなに聴聞してもらおうと思います」と。
すると賛成してくださると思っていた梅原師の口から「伊藤さん、あなたはよいことをしようと思っておられるかもしれませんが、私は賛成できませんよ」と返されたものですから驚かれた。当時梅原師は40歳ほど、一方伊藤氏は70歳にもなる、親子ほどの年齢差、富豪の伊藤氏に梅原師は待ったをかけられた。
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伊藤氏もその理由を訊かず、梅原師も語らぬまま二人は別れた。
それから伊藤氏は仕事をしていても何をしていても、梅原師の意図が量れず、そのことが頭から離れません。ある時ハッと気づいた伊藤氏は急ぎ梅原師を訪ねます。
「先生、先日の計画はご破算にしました、その代り今日は新しい計画を持ってきました」と申し、このように話を続けられました。
「新しい計画とは、やはり芦屋に真宗のお寺を建てようというものですが、それは芦屋の人たちのためではなく、この私が聴聞するお寺が芦屋にはありませんので、そこに聞法の道場を建てて、日曜日ごとに聴聞をさせてもらおうと思います」と話されると、梅原師は身を乗り出して「伊藤さん、その言葉を今日まで待っていましたよ」と仰られた。
そうして「芦屋仏教会館」が出来上がったのです。
その建物は戦火も免れ、今日も日曜日ごとに仏教講座が開かれて、創設者伊藤長兵衛氏の意思が脈々と受け継がれております。

梅原真隆師の「ただ念仏せよ」という思いは、正に誰のためでもない、この私のためであり、念仏以外に何がこの私をすくって下さるのかという、厳しい求道の姿勢の表れなのでしょう。

極楽の鳥たち・共命鳥(ぐみょうちょう) [仏・法・僧]

阿弥陀経に登場する鳥の中で一番知られているのがこの「共命鳥」です。
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これは中国で出土した共命鳥の塑像。
ひとつの鳥の胴体に、人間の顔をした頭がふたつ付いています。つまり二つの意思を持ちながら一つの命を生きている姿となっています。
説話では二つの頭(人格)が妬んだり、憎んだりして、相方に毒の実を食べさせることになっています。当然一つの体を生きているのですから、どちらも死んでしまうという結末が待っています。
愚かなことこの上ないのですが、人間の生き様を見ますと、戦争や環境破壊、貧困問題、差別問題など、共命鳥の愚かさと同じ姿ではないでしょうか。

極楽浄土ではこの共命鳥がのびやかに生き、高らかに仏徳を讃えていると説かれています。私の本当に願うべき姿を教えてくれているのでしょう。

ふと思い出したのが、この夏に地元小学校の七夕まつりのお手伝いをした時に目にしたある一枚の短冊に書かれた願いです。ひとりの女の子のものでこのように書かれていたのです。
「きらいな人だって 好きな人だって ともだちでいたいんです」

ここには嫌いな人を避けようとか、好きな人ばかり集まれとか、嫌いな人を好きにならなくちゃとかは書かれていません。嫌いな人も嫌いな人としてそのままに、友達でいたいと願っているのです。
ああ、これが共命鳥の心なんだろうなと思いました。

極楽の鳥たち・・・鸚鵡 [仏・法・僧]

阿弥陀経を読む会が先日のお彼岸お中日でこの秋のご縁は終了。次は春の彼岸の入りからです。
阿弥陀経を読む会では阿弥陀経に書かれている世界を拙いながらも住職が解説をしております。
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今回は鸚鵡(オウム)
鸚鵡は人の言葉を話すということから「賢い」というイメージを持っています。仏教説話にもいくつか登場しており、この度それらを読ませていただくと鸚鵡を単に頭のいい鳥ということではなく、その心が義理に固く、恩義に厚いということで語られているようです。
これもそのひとつ「枯れ木の鸚鵡」という物語です。

「枯れ木の鸚鵡」

ヒマヤラ山中のガンジス河のほとりにいちじくの木がありました。
そこには沢山の鸚鵡(おうむ)が住んでいました。
中でも王様の鸚鵡は真っ赤なクチバシと宝石のような目を持った美しい姿をしていました。
また、その心は姿よりも美しかったのです。
欲が少なく、友情に厚いこの鸚鵡の王様は、
自分の住んでいるいちじくの木に実が生らなくなってからも、
今までの恩を思って他へは行かず、
若芽や葉や木の皮やコケを食べてはガンジス河の水を飲んで暮らしていました。
わずかばかりの粗末な食べ物で不足一つ思わず、
旧友のいちじくの木を見捨てずに住んでいる、すばらしい行いで、
ある日天上のサッカ(帝釈天)の宮殿がぐらぐらとゆれ動いてしまいました。

サッカはその訳を知り、鸚鵡の王様の徳がどれほどのものか計るために、神通力でいちじくの木を幹だけ残して枯れ木に変えてしまいました。
穴だらけの幹は、風や日光を遮る物もなくなってしまいました。
それでも鸚鵡の王様はそこを去ろうとはせずに枯れ木のてっぺんで静かに暮らしていたのです。
食べ物は、幹の穴から出てくる木の粉とガンジス河の水だけになってしまいました。
さすがのサッカも感心して
「何という欲の少なさ、枯れきってしまったいちじくの木への、限りない慈しみの心、
私は鸚鵡の王に友情の徳というものを説いてもらった。
その褒美としてこのいちじくの木に、実をつけてやらねばならん。」 と考えました。
サッカはガチョウ王に姿を変え、妻のスジャーを先にいちじくの森に降りると、
鸚鵡の王様のそばの木の一本の枝に留って歌うように話しかけました。
「木にその果実が
たわわに実っているときは
鳥は群がり集まって
その実を食べますが
木が枯れてしまったら
実ができないと知ったなら
鳥はそこから飛び去って
あちらこちらに散ってゆく」
鸚鵡の王様は気にもとめない様子で、くちばしをしっかり閉じたままでした。
さらにサッカのガチョウ王は続けます
「綺麗な赤いクチバシの鳥よ
あなたは何故そのように
枯れ木に住んでいるのです
なぜ飛び去らずにいるのです」
すると鸚鵡の王様は初めて静かに話し出しました

「それは感謝の思いゆえ この木に対する友情は どんな時にも変わりません
まことの友と言うものは 盛んな時も友ならば 逆境の時も同じ友 善かれと願うばかりです 親族のような友である この木の破滅を知りながら どうして捨てて行けましょう」

これを聞いたサッカは、すっかり心を打たれてしまいました。
すがすがしい喜びと満足が胸一杯に拡がって、大きな声で鸚鵡の王様に言いました。

「その誠実な友情、慈しみに溢れた愛の心、それを喜び貴ぶあなたは、必ず賢者の中で称えられましょう。 何でも望むことを言ってください。私はそれを叶えて差し上げます。」

鸚鵡の王様は宝石のように輝く目を見張りながら
「もし、私の願いを叶えていただけるのでしたら、今一度この木を元気な時のように生き返らせてください」 と嬉しそうに答えました。

「全て望み通りにいたしましょう。 あなたはいつまでもこの木で幸せにお暮らしなさい。」
こう言うとサッカはガチョウ王から本来の姿に戻り、
妻のスジャーとともに神通力を使って、ガンジス河の水を両手ですくうと、枯れ木になっていたいちじくの幹にかけました。
するとみるみる枯れ木はよみがえり、生き生きと四方八方に枝を伸ばし、
その枝には若葉が茂り合ったかと思うと、甘い蜜をいっぱいに含んだ実が鈴生りになったのです。
このいちじくの木は如意宝珠の山のごとく輝きわたりました。
鸚鵡の王様の喜びは言いようもありませんでした。
サッカに心からのお礼を述べると、
満足気に天に帰って行くサッカとその妻スジャーの後ろ姿を見えなくなるまで見送っていました。


孔雀 [仏・法・僧]

彼岸の入りとなり、今朝から「阿弥陀経を読む会」が始まりました。
阿弥陀経をゆっくりとお勤めしてから、その内容にちょっとだけ触れた話をさせてもらいます。
今日は極楽の様子を描写した中に六種の鳥が出てくるところを訪ねました。
白鵲(びゃっこう)・孔雀(くじゃく)・鸚鵡(おうむ)・舎利(しゃり)・迦陵頻伽(かりょうびんか)・共命鳥(ぐみょうちょう)の六種類です。
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孔雀について
孔雀が極楽を象徴する鳥のひとつにあげられた理由は、その美しさだけではありません。インドでは孔雀は毒蛇を食う鳥とされ、世の災いから守ってくれる守護神として大切にされてきました。
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孔雀明王

これは「孔雀明王」という仏さまです。明王とは仏の教えに従わない人間を懲らしめ、教えに従わせんとするはたらきの仏さまです。不動明王さまが明王の中では一番知られていますね。
そしてこの孔雀明王も毒蛇をも恐れず、退治して、その毒に染まることなく美しい羽根を生みだすもととしてしまう孔雀の姿でもって、仏さまのはたらきを象徴しています。
それは丁度、蓮の花にも通ずるものがあります。蓮は泥にこそ生じ、その泥に染まることなく、真っ白な美しい花を咲かせるように、孔雀も毒を功徳へと変えてしまうのです。

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