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お念仏は誰のもの? [仏・法・僧]

一月二日の修正会では、月例法話会のように真宗法語カレンダーを訪ねてまいりました。

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称えるままが つねに御本願のみこころを 聞くことになる 
香樹院 徳龍


口に「ナモアミダブツ」と称えることをお念仏と申します。
そのお念仏を称えるということは修行のひとつであることに違いないのですが、それは誰の修行なのでしょうか?
「そりゃあもちろん、称えているその人の行に決まっているでしょう」とおもわれるでしょうか?
そうですね、私が自分の意志でもって称えているのだから、私の修行に違いないという風に理解するのが普通だと思います。

ところが徳龍師はそれは違うと仰るのです。
私は自分の意志で称えているつもりかもしれないが、それはこの私に称えさせんとはたらきがあればこそ、私この口に「ナモアミダ」と出て下さっているというのです。

(ここは真宗の要といってもよい大切なところですね、非常にデリケートな問題ですので慎重にお伝えしなければなりません。つまり私の言葉によって却ってお念仏のおこころから離れてしまうという危険性をはらんでいるということです。)

子どもは何かあるとすぐに「ママ~」と大きな声を上げますが、これはその子どもがそうした方が良いだろうと判断して「ママ~」と呼んでいるのでしょうか?
その子どもに母親がずっとずっと愛情を注いできたからこそ、その子どもはその母親を呼ぶのであります。
子どもの母親を呼ぶその声は、その子どもの口から出るものですが、それはそのまま母親の愛情の証しであります。

われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの親のよびごえ (原口針水)

子どもが親の愛情に気付く時が来るように、お念仏を称える中に阿弥陀様のお心に気付く時がやってきますよと、この法語は教えて下さっているのでしょう。



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