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死を明らかにする [掲示板法語]

二月に入りました。私の中では昨年末からエンドレスに続いていたやるべきことがひと段落しました。
ある意味、これからが本当の今年の仕事とも言えます。
さて寺の掲示板の法語も更新しましたよ。
死を明らかに.jpg
死を忘れると生活は浮く。死を怖れると生活は沈む。死を明らかにすると生活は輝く 池田勇諦


説明を必要としない法語ですね。
私たち普段は死を忘れ、浮いた生活をいかに楽しもうかと躍起になり、いざ病気など陰りを感じた途端に一気に落ち込む。この二つしか知らないというのが人間なのかもしれません。
最後の「死を明らかにする」とは一体どのようなことなのでしょうか?
死というものを自分の外に見ていた者が、死は実は私の中心にあったと知らされることで、それまでの生きるということへの意識がひっくり返ることかもしれません。
私の価値観や都合で量っていた私の生活が、全くその意味を変えることを「輝く」と仰るのでしょうか。

厄介者をさがせ [掲示板法語]

我という厄介者.jpg
「我」という厄介者にかかりきり


「厄介者」と聞くとそれは約束を守らない者だったり、自分勝手だったり、周りに頼る甘えん坊、無礼で不作法な者、言うことは立派なのにやっていることがあまりにお粗末、そのくせ最後は人に預けてしまったり、世話になっても礼も言わず、息抜きの時だけ機嫌よく、仕事の時はグズグズしている、大勢に囲まれると目立ちたがり、独りにしておくといじけてしまう、人の話は聞かないし、自分の意見は支離滅裂、威張るくせにすぐ逃げ出す。

本当に困った奴らだ。

「あれっ!?」

「これってすべて自分のことだったよ」

この一年、またこの厄介者に振る舞わされるんだろうなあ。

えらいこっちゃ、えらいこっちゃ [掲示板法語]

私の一大事.jpg
生老病死 ひとりひとりの 一大事

どこで見つけた言葉か失念してしまいましたが、私たちの人生の実相を言い当てているようで書きとめておいたものです。

私たちは誰もが他の誰とも代わることのできないいのちを生きています。
一年という時間もあっという間だったなあと時の経つ速さ、年をとることのわけの無さを感じた年末から、半月も過ぎるともう目の前の予定を追いかけるばかりの日々に没頭しております。

老いる事、病む事、そして死を恐れる事を克服することが、私たちを幸せにしてくれることはないでしょう。最後には敗北しかやってきません。

私の身の上に起こる老病死から私たちは逃れることができません。だからこそ私にとって一大事なのです。それらは私を苦しめるものに違いありませんが、この私に大切なことに気付かせるきっかけとなるかもしれません。
若さも健康も生きていることも、何ひとつとしてあたり前なことではないということを、わが身を通して知らされてこそ、その尊さがわかるというものでしょう。

幸せになる道 [掲示板法語]

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目の前の幸せに気付いたら一生幸せ者!

これはどこかの本から抜き出した一節です。どなたの本だったのか記録しておかなかったのでわかりません。
さて、幸せになりたいとは誰もが抱く願いではないでしょうか。
求めるモノ、願う状況は人それぞれであれども、そうした願いの叶うことが幸せというものであると信じているのも又ほとんどの人の思いであります。
ところが願いが実現する、夢が叶うということはなかなかありません。つまり多くの人々は幸せではないと感じて生きていることとなります。

この法語を見てみましょう。「目の前の幸せに気付く」とありますが、皆さんの目の前に幸せは存在します か?
「何にもない」「つまらないものばかり」と思っているのではないでしょうか。
京都の竜安寺という石庭で有名なお寺がありますが、そこにもうひとつよく知られた見どころがございます。
蹲踞(つくばい)という石でできた水を受け、貯める屋外に置く鉢のようなものですがその意匠が大変な優れものなのです。
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「真ん中の正方形は漢字の「口」をかたどっています。上から時計回りで(五と口で吾)、右の(隹と口で唯)という具合に吾・唯・足・知という四つの漢字がここに隠しているのです。
それを「(吾)われ、(唯)ただ、(足)たるを(知)しる」と読みます。
その意味とは、「知足の者は賎(いや)しとも雖(いえど)も富めり」「不知足の者は富めりと雖(いえど)も賎(いや)し」
つまり「知足の者」は「私はもう満足です」という心で暮らす者であり、その有り様が人から見たら貧しくとも、その者は富める者である。
そして「不知足の者」とは豊かな環境に暮らしていようとも、「まだまだ・・足りない」という思いでいたのならその者は貧しいということです。

「目の前の幸せに気付く」とはこの「知足の者」となることであります。
朝、目が覚めて「しあわせ」。ご飯が食べられて「しあわせ」。雨が降ってくれて「しあわせ」。歩くことができる足があって「しあわせ」・・・・・・。一瞬一瞬が「しあわせ」となれば、毎日、毎月、毎年がずっと「しあわせ」であります。


経験するということ [掲示板法語]

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経験とはあなたに起こった出来事ではない
あなたに起こった出来事をあなたがどう受け止めたかである
オルダス・ハクスリー


オルダス・ハクスリーは1894年イギリス生まれの作家。科学者一家に生まれるが、十代の頃に視力をほとんど失い、母や兄弟の死、そして戦争を経て彼は神秘主義や人間の意識などに強く惹かれるようになっていった。

そんな彼の言葉です。
「経験とはあなたに起こった出来事ではない あなたに起こった出来事をあなたがどう受け止めたかである」

私たちは常に物事を自分で解釈しながら暮らしています。そのことはあまり意識されることもなくあたり前のこととなっています。
さて、ある日私が突然高熱を出し、倒れてしまったとしましょう。
それは間違いなくひとつの出来事でありますが、私が経験するということは、それをどのように受け止めるかということであります。

①「今日は大事な仕事のある日なのに、なんて自分は運が悪いのだろう」

②「今日は嫌いな上司と接待に行かなくてはいけなかったのだが、これで休む口実が出来てほっとした」

③「普段は愛想の無い家族が、みんなして心配してくれている。熱を出したお蔭で幸せな気持ちになれたよ」

これら①、②、③とも、一つの出来事を受け止めた三者三様の「経験」です。
そしてこれら三様の受け止め方に優劣、善悪の違いはありません。思ったままがその人の経験なのです。

私たちは起こるべくして起こる出来事と遭遇し、起こらざるして起こらぬ出来事とは出あわずして日々暮らしています。それらをいつも私なりに受け止め、喜んだり落ち込んだりしているのです。
つまり「楽しい経験をした」というのも「イヤな経験をした」というのも、見方を変えれば「楽しいことと受け止めた」「イヤなことと受け止めた」というだけのことかもしれません。



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