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如来さまのメガネ [掲示板法語]

急に涼しくなり、朝夕は肌寒くさえ感じます。一気に秋になったようですね。
早いもので10月になったと思ったら早くも12日だそうです。

正太寺山門の掲示板です。
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如来より賜りしメガネをかけると、私の後ろに大宝海が見えてくる

毎朝目覚め、鏡の前に立つとそこに見慣れた、というか見飽きた私の顔が映っています。その姿は私の理想と期待からはほど遠い、残念な私でしかありません。

では如来さまの智慧の眼から見たら、この私を通してどんな世界が見えてくるのでしょう?
そもそも人間として生まれてきたことが大変に稀なことであります。そして生まれた後はたくさんのお育てをいただき、無数のいのちを頂戴して今日まで生きて来ております。
そしてその私に向けて、この私を救わんとして、はかり知れない仏さまのお慈悲のはたらきが注がれているのでしょう。

そんな私を自分では「残念な私」として見てしまっているのです。もったいない。


亡き人はほとけさま [掲示板法語]

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亡き人を案ずる私が 亡き人から案ぜられている 和田稠

八月となり、お盆を迎える支度が始まっています。
他宗では「お施餓鬼」と称して、餓鬼に施し、ご先祖さまをお迎えしおもてなしするという。
これをせねば、餓鬼は飢え、ご先祖はふてくされるということでしょうか。

今回の法語は大谷派の和田稠先生の言葉です。
私たちの迷いの元は「私は大丈夫」という思いです。
生きていることが幸せで、病気や老いることは不幸なことで、死んでしまったらもうオシマイ。
これが生きているものの驕りであります。

そんな迷いの中に沈んでいる私に、ある時は悲しみを、またある時は空しさを通して、亡き人はいのちのありようを気づかせようとしてくださっています。

しくじり [掲示板法語]

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またひとつしくじった しくじるたびに目があいて
世の中すこし広くなる 榎本榮一

巷にノウハウ本が出回っていますが、これは何事も失敗なく行い、期待した成果を上げようと考える私たちの心の反映でしょう。だれもしくじることなど経験したくない、思い通りに事が運び、思う通りの結果を手に入れることが幸福であると信じて疑いません。

改めて法語を読みますと、しくじることが決してマイナスばかりではないこと、いやそれ以上に、しくじることでしか開かれない世界があるといっています。
これは榎本榮一(えのもと えいいち)さんという、詩人であり、親鸞聖人の教えに深く帰依された念仏者の言葉です。榎本さんは生活の中でふと出遇う、お念仏のきらめきやぬくもりを詩に表してきました。少しだけ榎本さんの詩をご紹介しましょう。

ぞうきんは、他のよごれを、いっしょうけんめい拭いて、自分は、よごれにまみれている

この道 平坦ではありません ふみはずしましたが 気がつけば ここも仏の道でございました

私はこんにちまで 海の大地の無数の生き物を食べてきた 私の罪深さは底知れず





ありがとう [掲示板法語]


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人が幸せになる五つのひらがな「ありがとう」

「幸せになる」というと少々俗っぽいものに聞こえますが、「ありがとう」という言葉そのものは、「有り難し」つまり「有る」ことが「難い(むずかしい)」という意味であります。つまり、恵まれたご縁、いただいたもの、助けられたご厚意、かけられたひと言など、あることが難しいことに出あえた、頂戴したと感謝する心です。

「ありがとう」と言うことで人は幸せになるのではなく、「ありがとう」と言えるその時が幸せということでしょう。
仏さまの心に触れますと、どれだけ「ありがとう」と感謝しても感謝しきれないほどの恵みの中に生きていることを知らされます。感謝の心が間に合わない日々を生きているその勿体なさに、ただ手を合わせるばかりです。

心ころころ [掲示板法語]

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心ころころ ころころで 六字の中で心ころころ これがたのしみ 南無阿弥陀仏
浅原才市


妙好人・浅原才市さんの言葉です。ころころころころとまるで言葉遊びのようですが、定まりを持たないわが心を捉えた巧みな表現ですね。
状況がひとつ変わるだけで喜んだり怒ったり、一体自分の芯はどこにあるのだろうかと疑ってしまいます。
才市さんも同じように自分の心持の変化に戸惑われたこともあったのでしょうが、そんな時にはいつもお念仏に帰られたことでしょう。「どこへ転がってゆくか分からない私だからこそ、阿弥陀さまはしっかりと抱きとめてくださっているのだった」と。

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