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「わかる」ということ [掲示板法語]

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わからないことが わからないことと わかることが わかること
ひろさちや


なんだかとんちのようですが、これかなり深いと思います。
ひろさちや師のお話はいつも笑い声が絶えないのですが、この「わからないことが・・・」を仰った時は、半分の人が大笑い、半分の人はきょとんとされていました。

私たちは「わかる」ということを、常に対象を分析、分類、言語化することで把握し、そう言う状態を「わかった」としています。
ところがこのひろさちや師の言葉では、「自分」という主体が問われていると思います。
つまり、私には「わかる」ことと「わからない」ことがあり、「私にはわからない」とわかることができない人は、実は「わかる」ということもわかっていないということでしょう。

なぜなら、すべての事柄を「わかる」と処理する手立てしか知らないのですから、そこには必ず齟齬が生じているはずです。

溺れている人に溺れている人は 救えない [掲示板法語]

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溺れている人に 溺れている人は 救えない 清岡隆文


宗教の存在意義というものは、つまりは人間の価値判断を超えた世界に生きるということであろうと思います。
人間はそもそも迷いの世界に生まれ、迷いのままに生きていると仏教では教えられます。どんなに賢い人も、どんなに慈愛に充ち溢れた人でも、やはり迷いの中、つまり溺れている人であります。

宗教はそうした人間の構造的限界を知らしめることを主眼としているものでしょう。

自分が溺れている自覚もないままに、人を非難したり、批判したりと、まるで自分だけ陸に上がったかのようなつもりであります。

みちしるべ [掲示板法語]

快晴から曇天、そして豪雨と目まぐるしく変わるお天気。
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信心を賜るとは私の人生を仏道にすること 天岸浄圓

これは先月聴講した天岸先生の言葉を書きとめたもの。
そもそも信仰を持つということは、私の価値判断を他(私の思いや人間を超えた存在)に任せることと押さえられた上で、真宗の信心についても、仏の教えを伺いつつ、日々の生き方を確かめ確かめ歩んでゆくことですとお示しくださいました。

仏道ということは、仏に成る道であります。凡夫を仏にせんとする阿弥陀様の願いに連れられての人生を選びとりなさいというこであります。

久遠の母性 [掲示板法語]

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南無阿弥陀仏は わたしを生み 育て 人と成す 久遠の母性
池田勇諦


南無阿弥陀仏というものが、まじないや呪文ではないことを私たちは忘れてはいけません。
私は縁あってこの世に生まれて来ました。そして様々な苦労をしながらも生きております。それなりの人物となったと自負する心も芽生えてきて当然かと思いますが、ここでは「人と成す」とあります。
言い換えれば私はただ生きているだけでは「人と成れない」ということです。

ある先達は人間は二度目の誕生を期さなければいけないと説かれました。一つ目の誕生は赤ん坊としてこの世に生まれてくること。そして二度目の誕生とは自分が生まれて来たその意味を知り、生きることの意味に目覚めることです。二度目の誕生を迎えぬまま一生を終えてしまっては空しいことといえるでしょう。

「南無阿弥陀仏」はいわばその二度目の誕生を私に願って下さっているのでしょう。
空しい人生で終わらないで欲しい、どうか人として生まれて欲しいと。

幸せのパラドックス(逆説) [掲示板法語]

正太寺へ参詣に来られる人が年間で一番多いと思われる時期を迎えるにあたり、本堂前の掲示板に掲げる法語を何にしようかとあれこれ考えた末に選んだものがこちら。
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「幸せ」も「不幸」も 迷いの中

すんなりと腑に落ちる言葉ではありませんね。普通、宗教というものは「不幸」な状態の私を「幸せ」な私に変えてくれるものと考えられています。
宗教によって救われるとは、私の力ではどうにもできない「不幸」の素を解決し取り除いてもらって、「幸せ」にしてもらうことであると考える人が多いのではないでしょうか。

ところがここでは「幸せ」も「不幸」もそれはどちらも「迷いの中」であるというのです。
ひょっとしたら私の考えている「幸せ」というものは、本物ではないのかもしれません。

私が考える「幸せ」、つまり私が求める「幸せ」とは、どんなものでしょうか。
その内容は人それぞれではありますが、要約すれば「私の思うとおりになること」に尽きるのではないでしょうか。
そして「不幸」とはその反対で「私の思いが通らない」状態だということです。

その二つの基準はどちらも「私」です。他人の思いが叶っても駄目なのです。
本当は自分はどうなりたいのか分からないのがこの私です。ただ目の前の事に他人と比べて一喜一憂するばかり。
孫が二人いて喜ぶ人を見て、孫の五人いる人はさらに喜び、孫が一人しかいない人、あるいは孫のいない人は悔しがったり、淋しかったり。
これはあらゆることで同じ思いをしています。これが私たちの「幸せ」であり「不幸」の正体です。
何のことはない、自分の煩悩を悦ばせていただけのことであります。

「迷い」とどっちに向かって進めばよいか分からない状態です。
どちらに向かって歩いてゆけば私は満足するのだろう?
それさえ分からない私だからこそ、阿弥陀様は「我が国に生まれさせてやろう」という誓いを建てられたのです。

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