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メメント・モリ [掲示板法語]

死を思う人こそ.jpg
死を思う人こそ 本当に生きる人です


もう今年に入って半年が過ぎてゆきました。
掲示板法語を新しくしました。これもどこかの本から抜き出しておいたものです。それも随分昔に書きだしたものなのですが、今あらためて目に留まり、大きな紙に書いてみました。

世間では「4」は「死」、「9」は「苦」であると忌み嫌うことが通例です。そうして人は死を考えないように工夫しているのでしょう。
ところがこの法語では、死を思う人であれと示しています。
ふと思い出した言葉があります。

メメント・モリ


聞きなれない言葉ですが、これは写真家・作家の藤原新也が紹介しているもので、

(この言葉は、ペストが蔓延り、生が刹那、享楽的になった中世ヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語である)

MEMENNTO-MORI 「死を想え」という言葉だそうです。

藤原氏はこう語っています。
(本当の死が見えないと本当の生も生きられない。等身大の実物の生死を感じる意識をたかめなくてはならないい。 死は生の水準器のようなもの。 死は生のアリバイである。 MEMENNTO-MORI )

現代の世界が、いや現代の日本がこの中世ヨーロッパに重なって映るのは、私の錯覚であろうか。

不満足 [掲示板法語]

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人は昨日にこだわり 明日を夢見て 今日を忘れる (本夛恵)


仏教では「幸福」を売り物にはしません。その代り「満足」することを説いています。

この世に生まれて来たあらゆる人がそれぞれに満足することを願っているからです。

ではどうしたら満足することができるのでしょうか?

ここでは満足するための手立てを示すのではなく

私の不満足の原因を端的に指摘してくださっています。

(昨日にこだわり) 
自己の正当化と言い換えても良いでしょう。自分の努力してきたことも、苦労してきたことも、恵まれた様々なものごとにも、最後にはそこに「のに」が付いてしまいます。
「これまで頑張ってきたのに・・・」「ずっと我慢してきたのに・・・・」「あんなことが起こるまでは良かったのに・・・」全部愚痴や恨み節であります。

(明日を夢見て)
無い物ねだりとも言えますね。状況や環境の変化を求めている状態です。こちらは最後に「たら」が付いてきます。
「この宝くじが当たったら・・・」「景気がもう少し良くなったら・・・」「この病気が治ったら・・・」これでは希望が叶うまでは待ちぼうけですね。

(今日を忘れる)
今、ここ、この私。この三つに満足していないということです。

昔、お説教で聞いたお話
私たちはお化けと同じですという。お化けの長くふり乱した髪の毛は、「後ろ髪を引かれる」という姿そのもの。つまり過去への執着です。そして両手は体の前で空を掴む様子を表し、無い物ねだりの姿です。
そしてその報いとして足は掻き消え、今現在に足が着いていないというのです。
なるほど、お化けはどこからか現れるのでははく、この私が正にお化けだったということです。

フレー フレー 汝 [掲示板法語]

ゴールデンウィークも終了ですね。近所で普段見ない若いパパさんが小さな子どもと遊ぶ光景を目にしました。
お寺の掲示板をご覧くださいね。新しくなっています。
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阿弥陀さまは私の応援団 私がどっちに転んでも 応援してくれる


プロ野球などですと優勝に向かって邁進している時などは熱い応援を受けられるのですが、最下位を守っていたり、優勝戦線から転落したりしてしまうと、応援どころかブーイングや無視されてしまうようですね。
まあ、人間の心のことですから仕方ないことでしょう。ただ残念なのはその同じ心で私たちは子育てをしていたり、自分の事を見ていることです。
「よく出来たから 良い子」
「頑張ったから いい子」
「一等賞だから立派」
「成績が上がったから素晴らしい」ということです。

でも阿弥陀さまは違います。
「あなたはそのままで 良い子」
「頑張れたり 頑張れなかったり だよね」
「あなたが何等でもいいんだよ」
「成績のことなんて 気にしないよ」

だって私はあなたのことが大事なんだから、大切なんだから、それはあなたがあなただから、それ以外に、それ以上に、大切なことなどないんだから。

自己自身の自覚せしものとは? [掲示板法語]

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自己以外の他によって 自己自身が自覚せしめられる これめでたきことの第一なり


ポカポカと暖かな日が続きます。近所の桜も満開です。そして明日はもう四月です。新しい年度を迎えまた気持ち新たに処してゆきたいですね。
さて、門前の掲示板も更新です。これもどこかの本に見つけた一節で、どなたの言葉か不明であります。

自己自身が自覚されるとはどういうことなのでしょう。
私は私を知らないわけはありません。ですが私も自分では思いもしなかった行動に出たり、思わぬ心境になったりと、知っているはずの自分の、未知な私に出会うこともたびたびあります。
それはワクワクすることばかりではなく、恐ろしい心や冷たい気持ちを抱くことも、欲や怒りに任せた振る舞いをして取り返しがつかないことさえあります。
そんな時「私としたことが・・・」「自分でも信じられない・・・」と当惑するのかもしれませんね。

しかし仏様の眼からご覧になったら「そんなあなただと、当に知っておりましたよ」と仰ることでしょう。
自己自身が自覚されるとは、仏さまの光に触れるということではないでしょうか。
誰しも自分が思い描いたような自分でありたいと願うものでしょうが、傷つきたくないばかりに自己保身に走ってしまうのが人間の本性、私の本質なのでしょう。
そうした殻を私自身が取り払うことなどできません。自己以外のはたらきによって破られて初めて殻に閉じこもっていた自分であったと気付かされ自覚となるのです。
それを「めでたきことの第一なり」とおっしゃっているのでしょう。

欲深き人の心と降る雪は積もるにつれて道を失う [掲示板法語]

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欲深き人の心と降る雪は積もるにつれて道を失う


これは落語「夢金」のまくらで話される一節。「けち」と「欲張り」は違うということから、こんな欲張り男がおったそうな・・・・と落語は続きます。
冷え込む冬のある晩のこと、ある船宿に不審なお侍さんとその妹という美しい娘が訪ねてくる。やがて欲張り熊さんが船頭となり船を漕ぎだすと・・・・。

こちら三代目古今亭志ん朝の『夢金』です。上手いですね。https://www.youtube.com/watch?v=3qtTTYSjHdE

仏教ではこの世で私たちが出会わなくてはならない苦しみをいくつかに分類して教えてくれます。
そのひとつが「求不得苦(ぐふとっく)」求める物が得られない苦しみです。
そしてその解決方法として、欲するものを与えるのではなく、求めることそのものを止めなさいと教えます。
勿論そうですかと止められるわけではありませんが、苦しみの原因が自分の内にあると知っておくことは大切なことです。


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