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檀信徒研修会201505 [高田本山]

高田本山にて恒例行事「檀信徒研修会」が開催されました。年二回ずつ行われて早60回を迎えました。
午前中は講義を聞きます。
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ご講師は清水谷正尊先生です。講題は「中興 真慧上人(しんねしょうにん)」について。
真慧上人は高田派第十世の上人。本願寺の蓮如上人と時代を共にしています。実際に二人の間には当初は親交厚くしていたのですが、やがて仲たがいをしてしまいます。
高田派の本山は元々は下野の国(栃木県)にありましたが、それを現在の伊勢の国(三重県津市)に移されたのが真慧上人です。
真慧上人はそれまでの本山―末寺―信者という形式から本山―信者という新しい流れを作り出します。そこで考案されたのが「野袈裟(のげさ)」と「棺腰巻(かんこしまき)」というもの。
野袈裟とは真慧上人自らが風呂敷ほどの布に「南無阿弥陀仏」と「其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自到不退転」を大きく書かれたもの。それを信者の葬儀に際しお棺の上に掛けるのです。
棺腰巻は幅30㎝、長さ2.5mほどの布に「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」と「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」と書かれ、お棺の周囲ををぐるりと巻いて使います。
これらは主に地元三重県で普及しました。棺腰巻は座棺から遺体を横たえる柩に代わったこともありすたれてしまいましたが、野袈裟は今日でも三重県の高田の葬儀では用いられているそうです。

午後はグループ別に座談会です。7~8名のグループで感想を述べ合ったり、質問を司会役の僧侶が受けたりという時間です。私もあるグループの進行を仰せつかり色々とお話を伺いました。
葬式の話題では先の「野袈裟」についてや昔の葬式の様子など諸先輩方より、私の方が教えていただきました。
まだ土葬だったころのことや、村の焼き場で荼毘に付した話。戦時中の焼き場では遺体の生焼けがよくあったとか、村中の人が野良着のまま葬列に並んで村中で送ったことなど。

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これは閉会式に続いて一光三尊仏の通り参拝の様子です。普段より一歩近くから拝むことが出来ました。

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そして一光三尊仏絵伝の絵解きです。インドで誕生された一光三尊仏がやがて日本に現れ、海に打ち棄てられたにも関わらず善光(よしみつ)という男を縁として信濃(長野)へやってくるという伝説をお聞きしました。


神戸別院 [高田本山]

昨日は愛知県の高田派寺院を中心とした集まりでもって三重県へと研修に行って参りました。
メインは昨日ここでご案内申し上げた三重県総合博物館の「親鸞展」の拝観。
そしてその途中でお参りしてきたのが「神戸別院(かんべべついん)」です。
 
「かんべ」という通り三重県鈴鹿市神戸二丁目にあるそれは立派なお寺でした。
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鈴鹿の古い街並みの中に立つ神戸別院
別院というのはいわば高田本山の出張所のようなものです。そこには輪番(りんばん)という管理責任者が置かれ、専修寺住職である法主の代理を勤めます。
その維持管理に関してはその地域の高田派寺院でもって守られてゆくのですが、ここ神戸別院は鈴鹿のお寺48ヶ寺が六つの組に分かれて輪番、副輪番を回しているそうです。
各寺院の地道な支援によってこの歴史ある神戸別院は今に伝えられているのです。行事に来られるお参りの人の数の多いと聞きました。立派なことです。

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内陣も立派です。

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立派な座敷もいくつもあります。

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これは本堂裏の控えの間ですが、天井の意匠が素晴らしい。

神戸別院の今後ますますの御法義の宝田たるはたらきを念じつつ、私たちは高田本山へと向かうのでありました。


聖人の息遣い [高田本山]

先日、津へ行き三重県総合博物館で『親鸞 高田本山専修寺の至宝』展を観て参りました。

三重県総合博物館は昨年オープンしたばかりの施設です。外見はもちろん、中に入ると更にその斬新さモダンな設えにテンションUP[右斜め上]

さて展示室に足を進めるといきなり親鸞聖人座像がおわします。それもガラスケースの中で見下ろしてしまう低い位置に鎮座されていました。なんとももったいないこと。

そこからはもう聖人後真筆(親鸞聖人が書かれた本物)がズラズラと並んでおります。
監修をされたお寺さん曰く、今後これほどの展覧会は多分出来ないでしょうということでした。
つまり今回この聖人御真筆を拝ませていただかないと、一生目にすることはないということです。

まあ、そんなことを聞かされなくとも聖人の筆によるお手紙などは、誠に魅力に溢れており、見に来てよかったと心底感じました。
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みんながあんまり顔を近づけるのでガラスケースのあちこちにおでこの油や鼻の跡が薄っすらついていて笑えます。かくいう私も鼻の頭で二回ほどプッシュしてしまいました。

この展覧会は会期終了が迫っております。お急ぎを5/10です。
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/temporary_exhibitions/temporary_exhibitions_H26/shinran.htm

第八回布教伝道大会 [高田本山]

高田本山へ行って参りました。
「布教伝道大会」という行事の進行役を仰せつかっております。
本願寺派の葛野洋明先生(かどの ようみょう)をお招きし、高田派からは清水谷正尊氏、そして真置和徳氏(まさき わとく)のお二人が約30分の法話、そして葛野先生のご法話との質疑応答というとってもお得な2時間でありました。

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葛野先生は「覚っていない私が、覚っていない皆さんに、覚った仏さまのことをお話ししようというのですから、わからない話をします」といって無分別智(むふんべっち)、自他一如(じたいちにょ)、怨親平等(おんしんびょうどう)の世界を語られました。
確かに「分かる」という話でありませんでしたが、私には分からない世界だなあと感じる内容でありました。

なんとも人を食ったような紹介の仕方でありますが、人間のものさしが間に合わないことを、人間のものさしで量ろうとすることの無効性を知るとは本当に大変なことなのです。


服部亮英展 [高田本山]

只今、高田本山では「高田派画伯 服部亮英展」が開催されています。

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4/3~4/16まで 高田派宗務院2階 第三会議室 入場無料


服部亮英(はっとり りょうえい) 1887年ー1955年
三重県高田派寺院 慈教寺の長男として生まれる。
東京美術大学(現東京藝術大学)に入学。卒業後東京朝日新聞社に入社し、漫画に才腕を振るい『漫画の服部』として名声を博する。

チラシの右上の油画の肖像画は高田派第二十二世法主堯猷上人を描かれたもの。氏の代表作であります。
私が今回とても惹かれたのはこうした油画ではなく、淡々とした雰囲気を持つ日本画のほうです。

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例えばこちら「田植歌」とあります。これは親鸞聖人40代の頃、関東は栃木の地で布教されておられた時、聖人をしたう平太郎という若者に田植歌を教え、田植をしながらお念仏の御教えを広められたというエピソードを描いたもの。その時聖人は自ら衣の裾をまくりあげて皆と一緒に田植をされたと言い伝えが残されています。

『五劫思惟の苗代(なわしろ)に、兆載永劫の代(しろ)をして、
一念帰命の種おろし、自力雑行の草をとり、帰命尽十方無碍光如来、
念々相続の水流し、往生の秋になりぬれば、この実(み)とるこそ、うれしけれ』

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こちらが聖人が田植をされている情景。聖人に合わせて皆で歌う声が聞こえてくるようです。

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またこちらは聖人が35才の時越後に流罪に遭われ、その越後の雪国に於いて辛苦を尽くされた頃の様子です。
髪もひげも伸び放題だったり、眼光衰えぬところなど、重くなりがちなテーマながらどこかほのぼのとした絵となっています。

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この絵の題は『雲か煙か (震災絵巻)』とあります。見れば手前の男はゲートルを巻いた軍服姿。
どうやらこれは1944年12月7日の東南海地震(マグネチュード8.0)特に三重県が大きな被害を受けた震災を描いたものでしょう。するとこの男は亮英自身かと思われます。

本山の片隅で行われている地味な展覧会ですが、じっくりとご覧いただけたら何よりです。


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