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永遠に「戦後」であれ [日記、時候]

昨日8月15日は終戦記念日
私はお盆の最終日ということで、正午の黙祷も忘れ法務に勤しんでおりました。

「戦後」という言葉があちこちで語られています。
「戦後」という言葉が来年も再来年も、ずっとずっとこの日本で語られ続けられることを願います。
「戦後」という言葉が消えてしまったら、それは戦争のない平和な世の中ではありません。
それは「戦前」と後の人が語ることなる時代になってしまったということです。

『日本国憲法』が現状のままでは、もし他国から我が国が攻撃されたら戦い守ることができないのではないかと心配されている方もいらっしゃるかもしれませんが、現行の憲法において「個別的自衛権」は認められていますから、十分に反撃できます。
ここの所はとても重要な知識だと思います。
政治家や一部のマスコミによって不安を煽り、憲法改正の必要性があるかのように思ってしまうことがあったなら、「個別的自衛権」を思い出してください。
憲法の改正は他国からの攻撃に関しては、改正する必要はないということを。

「戦争もやむなし」という思いこそが、戦争を始めさせるのだと思います。
永遠に「戦後」という言葉を大切にすることで、昨日の天皇の挨拶にもありました「深い反省」を心にとどめ、繰り返してはならないとの思いを絶やしてはいけません。
これは自分の生きている間は何事もなければそれでいい、というわけにはいきません。
もし戦争が起きてしまえば、今の私は「戦前の人」といわれ、消極的にしろ、積極的にしろ、戦争に加担した者といわれてしまうのですから。

お寺のある生活 [日記、時候]

正太寺にはご存知の通りホームページがございます。
これで開設からちょうど一年になります。

ホームページ公開中449.jpg


さて、その後の経過はどうなのか?
閲覧者数だけで量れば、ずっとボチボチといった具合。どんどんと増えてゆくことを期待していましたが、なかなかそうはいきません。
そんな時にご案内お誘いをいただいた、お寺の紹介サイト「まいてら」。
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こちらは顔が見えるお寺として、住職などの思いや考え方が一覧できるようになっており、外から眺めているだけでは分からない、行事やイベントの情報なども手軽に見ることができるようになっています。
そして正太寺もその1ページを飾っておりますので、ホームページと併せて「まいてら」もご覧ください。

一楽真先生に聞く [日記、時候]

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昨日は高田本山にて開催中の「仏教文化講座」を訪ね、大谷大学教授・一楽真(いちらく まこと)先生のお話しを聴聞してまいりました。

朝の9時から正午まで3時間に亘り、「念仏もうす生活」という講題で、お念仏が人を変え、世を変えてゆく大きなはたらきであることを語ってくださいました。
先日の相模原の事件にも触れられ、現代日本の縮図として容疑者の姿をご覧になっていらっしゃる。それは「有能で、有益なもの、効率よく、多くを手にすることがよいこと」と見る価値観一辺倒となってしまっている中で、不自由なもの、弱いもの、衰えたものには価値がないものと見ることになり、やがては自分自身を無価値で生きる意味もないものとしてしまう世界が今のこの国、つまりは私たちひとりひとりの生き方となってしまっているのではないかというのです。
阿弥陀様は「無量寿」とも言われますが、この「無量」とはたいへん長い、たいへん大きいという意味ではなく、量ることができないことを示しています。人間の全てを量ろうとする(優劣、善悪、高低、美醜・・・)心を破ってくださるはたらきがお念仏であるということです。

先生のお話は単に知識を頂戴するに留まらず、いくつもの気づき、正に私のことだとハッとする経験を賜る貴重なものでした。

お磨き会の報告 [日記、時候]

先日の30日、午後2時より
本堂で仏具のお磨きを有志の皆さんと行いました。
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堂内に風が抜けていい具合と開始しましたが、ブラシ片手にゴシゴシ始めればもう汗まみれ。
今回初めて参加という方も2,3名お越しくださり、一時間で作業は終了することができました。

順次内陣に戻し、その日のお夕事では改めてそのピカピカ具合に感動しました。
さあこれで、お盆を迎えるにあたっての大仕事が完了。
そしてイベント、お役続きだった怒涛の目まぐるしさだった七月も切り抜けることができました。


徘徊する人々 [日記、時候]

巷で噂の「ポケモンGO」
スマホさえ持っていれば誰でも遊ぶことができる(らしい)
そうせいもあってか、たった一日二日で日常化しつつある。

ポケモンGO.jpg

つい先日も、お墓参りに来た家族づれ、大人も子どももスマホ片手に、きょろきょろしながら墓地へ歩いてゆく。
高速道路のサービスエリアでもウロウロ。

おじさんの小言を聞いていただこう。
私は遊ぶことは大好きだ。大いに奨励する。だが、遊びにも種類があると考える。それは「遊ぶ」ことと「遊ばれる」こと。
「遊ぶ」こととは、何もない地面に一本の棒と石ころがあれば、自分でルールを作ってゲームをしたり、それで絵を描いてもいい。
「遊ばれる」というのは、出来上がったシステムに乗せられて、設定どおりの楽しみを受けるというもの。
私が遊びを勧めるのは、気分転換やリラックスする効果も勿論ですが、それ以上に新しい発見や自己と向き合う機会ともなると思うからです。
「遊ぶ」こと、「遊ばれる」こと。どちらが創造性と機知に富むか、言うまでもありません。

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