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如来の本願 [仏・法・僧]

月例法話会でした。この秋最初の冷え込みとなり、日向が恋しく感じられます。

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如来の本願は称名念仏にあり (藤元正樹)


「念仏(ねんぶつ)」とは文字通り、仏を念ずることであります。それは精神を研ぎ澄まし、集中力を高めるために過酷な行を修めることでようやく仏さまを感じることができるのです。つまり高い能力と志を持った者にのみ到達できる境地だったのです。

それを口に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えることで、仏さまとひとつになれるのですよとお説きくださったのが親鸞聖人の師である法然上人でした。
これが称名念仏というものです。これなら(誰でも)(どこでも)(どんな時でも)仏様といっしょになれる、この上ない教えであります。

この私の口で称えるお念仏に仏さまと相通ずるほどの功徳が備わっているとは信じられるものではありません。誰もが戸惑い、誰もが悩む一点です。

私はこの疑問をこのようにいただいております。
生まれてくる我が子を愛する親の心は、黙っていられるものではありません。大きくなったお腹の中の胎児に向かって「ママですよ~」と毎日のように話しかけ、誕生すれば更に事あるごとに「ママですよ~」と呼びかけます。それは赤ん坊にその言葉が理解できるか出来ないかなど関係ありません。親の願いがそうせずにはいられないからです。
そうしてひと月経ち、二月経ち、数か月が過ぎる頃には赤ん坊も初めて言葉を発します。
「ママ~」と。その呼び声は子どもの口より聞こえたものですが、その言葉をその子に言わしめたのは親の願い、親の愛情ではないでしょうか。
子どもの口から「ママ~」と親を呼ぶその声は、親の願いが届いた姿に違いありません。

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