佐々木閑先生 [仏・法・僧]
豊橋仏教会主催・暁天講座、初日のご講師は花園大学教授の佐々木閑(ささき しずか)先生でした。
暁天講座は朝6時から始まります。その少し前に控室まで佐々木先生を訪ねご挨拶申し上げました。
目的は二点
一つは佐々木先生が花園大学という禅宗(臨済宗)の教授でありながら、実は真宗高田派の住職であるという情報が真実なのか、この耳で確かめたいということ。
先生は肩書きだけ住職としているが、実務は遠い親戚のお寺さんにやってもらっていると恐縮気味に説明をしてくださいました。
二つ目は、今はまだ内容は伏せておきますが、あるお願い事があって、お断りになられるのは前提で、不躾ながら打診したところ、先生は「よろしいでしょう」とご快諾くださり、「じぇじぇじぇ」とビックリしたのは私の方で、その後はもう浮かれた気分のまま6時からの先生のお話を聞かせていただきました。
佐々木先生はまず、お釈迦様はどういった理由で仏教なるものを説かれたのか、という設問から始まり、決して「趣味で始められた」ものではないことを強調。
当時のインドは過酷な差別社会であったこと、そうした中でただ一人「あらゆる生き物はすべて平等であり、すべて不幸である」と主張をされた。その根拠が「縁起の法」であったというのです。
お釈迦様は絶対の平等を説くことによって、神への畏れや、その神の信託を受けたという一部の人間からの支配から人々を解放する道を切り拓こうとされたのです。
若き者も老いた者も、富める者も貧しき者も、賢き者も愚かな者も、皆苦しみの内にあるからです。その苦しみとは老い、病い、そして死です。
これらの苦しみから逃れるには二つの方法がある。
一つは、老いない、病まない、という方法。これは医学へと発達してゆきました。
そしてもう一つが、老いても、病んでも、苦しむことのない自分へと変わるという方法です。
お釈迦様はこの自分で自分を変えてゆこうという道を勧めてくださるのです。
仏道の基本は「出家」といわれます。これは家も家族も一切を振り切って、ひとり自分を深く考える人となるのですが、これは生活を今まで通りでは十分に自分を見つめることが困難なために「出家」という手段を取ったのですと聞き、私の中で「出家」ということのもつ意味が明瞭なものとなりました。
この「出家」ということから「自殺」について語られたことが非常に印象深かったです。
いわゆる俗世間においてどうにも生きづらいと感じた方をお釈迦様は喜んで仲間に迎えました。つまり「出家させた」のです。もしこの時「出家」という方法がなかったとしたら、彼はもはや「自殺」という道しか残されていなかったでしょう。「出家」にはこのように「自殺」を防ぐというはたらきをもっているのです。
そして先の「あらゆる生き物はすべて平等である」という真理から、これは生きている間だけではないのです、死んでからも私たちは平等であることをわすれてはいけません。つまり死んでしまった方は生きている人のように言葉でもって意思を伝えるということはできないけれども、はっきりとここに「居る」ということなのです。自殺をされた方に対して心無い言葉を耳にすることがあります。「弱い」「負け犬」「逃げた」・・・等々。
こうした言葉がどれほど亡くなった方を侮蔑しご遺族の心を傷つけることになるか。なぜこうした言葉を平気で口にできるのかと言えば、死んだ本人はもう「居ない」ことと思っているからである。
生きている私も、死んでしまったその人も「絶対平等」ということは、対等であるということです。つまり、亡くなった方が目の前にいらっしゃるものと思わなくてはいけないということです。
本人を目の前にして先のような言葉を告げられますか。
約一時間の先生のお話を要約することなどとてもできませんが、印象に残ったところだけ列記しました。
表現が一人称になったり二人称になったりと読みづらいこともお詫び申し上げます。
明日の朝と明後日の朝と暁天講座は続きます。お出かけください。
2013-07-22 11:31
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コメント(3)
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私もお聴きしたかった!
by ボーズandカナコ (2013-07-24 08:32)
また、高田本山で、先生のお話を拝聴したいので
機会がありましたら、三重県にあります 高田本山でも、ありがたいお話を
してくださいませんでしょうか?
by 悟道さんがお願いなさったこと (2013-07-24 12:20)
佐々木閑先生に高田本山でお話してくださいと私からはとてもお願いできるものではありません。
本山のしかるべき者に佐々木先生をリクエストしますと申し上げておきます。
by 悟道 (2013-07-24 12:42)