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私にとってお念仏とは [仏・法・僧]

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生活の中で念仏するのでなく念仏の上に生活がいとなまれる
  
( 和田 稠(しげし))


今月の法話カレンダーは和田先生の言葉です。
私は27歳から二年間、三重県津市の高田本山に見習い職員のようにして席を置いていました。
毎朝7時からの晨朝に出仕、その後は雑用をこなしながら日中、お夕事とお勤めをして、夕方早い時間には解放されるという日々。
本山で知り合った方々からあちこちの法話会に誘われて津市周辺に限らず北は長島町から南は飯南町まであちこちの法座に連れて行ってもらっていました。
そんな法座のひとつに毎月歎異抄を学ぶ会があり、その講師として和田稠先生が来られていたのです。
私の第一印象は「ずいぶんお年を召したお爺さんだこと」といった誠に失礼極まりないものでした。
講義が始まってもしばらくはボソボソ、ボソボソと話していて、何のことかさっぱりわかりません。ところが次第にその声が熱を帯び始め、先生は机の縁を両手でグッと握りしめながら、お念仏の事、親鸞聖人の事、そして現代の世相とそこに浮かぶ私たちの浅ましく、狡猾な在りようを語られるのです。
「この人、なんかスゴイ!!!」と私はすっかりファンになってしまいました。

「お浄土という言葉で言われておる世界は、我々人間が願わずにおれない世界をお浄土と言うんです。願いの中にお浄土はすでにある。願いが我々の生活を開き、我々の片寄った認識を開いてくる。」
和田先生の言葉です。先生の講義録などに目を落としてみますと、その一字一字が先生の声となって聞こえてくるようです。
和田先生と出会う機会を賜ったことは、私にとってこの上ない宝であり、礎であります。
今日の日本の情勢、そして国際社会の動向を和田先生がご覧になられたとしたら、何を語られるだろうかと、思わずにはいられません。
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