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百花繚乱 ( 真宗のお盆・その三 ) [されど習わし]

今日も堪らない暑さでした。お盆に入り墓地は早朝より大賑わいです。
お盆墓参り.JPG
正に百花繚乱の様


さて、「お墓参り」は宗教、信仰なのであろうか?

「そんなの当然じゃないか」という声が聞こえてきます。

ここ正太寺のように境内に墓地も備わっている寺院ですと、年間を通じて参詣者が絶える事はありません。それはお寺にお参りするというよりも、我が家のお墓に手を合わせに来られているからです。
(もし今の様に本堂裏に墓地が無かったとしたら、参詣に来られる方はほとんどいなくなってしまうだろうと思います)

お墓参りにマメに行く人のことを世間では「信心深い」と呼ぶようですが、お墓参りを熱心にして悟りを開いたという話は聞いたことがありません。
お墓参りとは言い換えれば「先祖供養」「死者供養」と言ってもよいでしょう。
そしてこうした「先祖供養」が宗教であり信仰であると理解されているようですが、これをイコールで結ぶことはできません。

理由の一つは、宗教には「教え」が存在しなくてはなりませんが、「先祖供養」に教えは必要ありません。自分なりの思いで供養しても成り立ちます。

理由の二つ目、宗教には己を超えた世界が開かれるという、悟りとか救いとか言われる経験が待っているものですが、「先祖供養」には己の中での満足、「自己満足」を超えるものは生まれようがありません。

では「先祖供養」と「宗教」は別々のものかといえば、そうでもないのです。
私たちが「宗教」に足を踏み入れる動機というものは、実は私たちの中かは出ては来ないもののようです。老・病・死に代表される私たちの苦しみが縁となって「宗教」に出遇うという道筋を皆へて来ています。そうした中には愛する者との死別の悲しみを胸にひたすらお墓参りをされ、やがてそれが教えを求めるご縁となった方も居られることでしょう。
そうした場合でも、周りから見たその人の姿は、いつも熱心にお墓参りを続けていると変わらないかもしれません。しかしその人の心の中には教えを求める歩みが始まっているわけですから、手を合わせる対象はその愛するその人から、その人を含めた仏さまへと大きく変化しているはずです。

お墓参りは宗教への入り口となる可能性をたくさん秘めていますが、それはあくまで「入り口」であって、「中心」ではありません。
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みやせ

毎週末、実家に行くとお参りはします。その時目を向けるのは遺影が主で、その写真から、亡くなった父の事を思い出してますが供養という自覚はありません。成仏しているというという事には、不思議と確信があるんですが、まだまだ宗教の入り口にも到達していないかんじですね。
by みやせ (2016-04-14 22:33) 

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