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ペテンだ [日記、時候]

ペテンだ.jpg


先日の本山での法話研修会でのこと
実演された法話に因んで親鸞聖人の作られた和讃がとり上げられた。

無慚無愧のこの身にて
まことの心はなけれども
弥陀の廻向の御名なれば
功徳は十方にみちたもう
正像末法和讃(愚禿悲嘆述懐)

これは長年お念仏の徳を喜び、人々にも伝え説かれた聖人が、我が身を振り返れば慚愧の心の微塵もないことをもって、阿弥陀様の功徳を称えられている和讃です。
それでも畏れ多くも親鸞聖人を「無慚無愧」と、この私が云うことがゆるされるのだろうかと、この和讃の扱いには慎重になって然るべきといった話しなどが述べられた。

講師のお話のあと、質疑応答となった。
ひとりの初老の男性が挙手されマイクが手渡されるとこう仰った。
「親鸞聖人がこの愚禿悲嘆述懐和讃をもし作らなかったとしたら、それはペテンだ!」

私はびっくりした。こんなにも真剣な思いで真宗を学んでいる方がいたことに。
多分、この方は様々な宗教、宗旨を訊ねてこられたと私は思いました。
自分では支えきれないような苦しみに応えてくれる教えを探し続け、そして出あったのが親鸞聖人という方だったのではないでしょうか。
誤解の無いように私の受けた印象を申し上げますと。
親鸞聖人がどれほどお念仏の功徳の優れていること、阿弥陀様の救いの間違いのないことを説いておられても、親鸞聖人ご本人がそれをどのように受け取っているのか、その嘘偽りのない述懐にこの男性は「間違いない」と親鸞聖人の教えに己を預けられたと思うのです。

ご本人曰く、「歎異抄を全文暗記しております」と。
それほど親鸞聖人の言葉にすがり付きたいような思いがあったのでしょう。
聖人の愚禿悲嘆述懐和讃の上に、本願に出あったよろこびと「無慚無愧」といわねばならない深い慚愧の心の間で悶絶する人間親鸞を感じとられた人にしか言えない一言だと思いました。

研修に参加された僧侶の方からは「仏法を語ることが怖いことと感じます」という声も聞きました。
初心忘るべからず。
仏法を伝える大切な役割を僧侶は賜っております。間違ったことを伝えてはもちろんいけませんし、伝える者の心構えや姿勢が常に問われていることを肝に銘じておかなくてはならない。






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