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臨終の善悪をばもうさず [日記、時候]

先日の葬儀において
その方はひとりで暮らしていた80代の女性。子ども一家は遠くにいて、同居を誘っても馴染んだ地元を離れたくはなかった。
それは暑い日だった。待ちに待った晴天だったので、朝からせっせと庭の草むしりに精を出していたという。その晩、女性はお風呂の中で死んでしまった。
新聞受けに新聞が入ったままになっていることを不審に思った近所の方からの報せで警察がやってきて浴槽に変わり果てた女性を発見する。それは三日も経ってからだった。

連絡を受け枕経を勤めたが私は大変ショックを受けた。幼いころから可愛がってくれた人だったから。
そしてご家族はさらに動揺されていた。ひとりでいたから死なせてしまったのではないか。発見が遅れたのも自分たちのせいではないか。あの日もう一度電話を入れればよかったのに・・・。思いは尽きない。

更に蒸し暑い天候によって傷んだご遺体は式場に祀ることさえ出来ない状態であった。
最期のお別れとして、尊顔を拝む、お花を手向けるといったことの出来ぬままご遺体は荼毘に付されたのでした。

それまでお元気だった人の突然の訃報に近所の方々も落ち着かない面持ちで参列されている。
お通夜での法話では以下の三点をお話しました。

ひとつ・ご主人が亡くなられても一人暮らしを望んだのはご本人の強い意向によってであったということ。

ふたつ・お亡くなりになった日の様子から発見されるに至った経緯。そしてご遺体をこの場にお迎えしていない理由。それは私たちのその人への思い出を壊しかねないほどの状態であり、故人ご本人の思いを確認することは出来なくとも、私だったら同じように隠しておいて欲しいと願うであろう考えたからということ。

みっつ・この度のような亡くなり方は誰の身にも起こり得ることであり、そもそも亡くなり方は選びようがないということ。そして親鸞聖人のお手紙の一節を紹介しました。
まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず
これは聖人が「人間はその死にざまで量られるものではありませんよ」と仰っているところです。その根底には阿弥陀様は十方の衆生を救うという誓いを建てられ、そこには生きざま死にざまなど一切条件とはしていないということがあるからです。

(ここしばらく、この度の件があって落ち着かず、心の中がモヤモヤとしておりました。ようやくここに文字にしてご報告できるようになりました。ご意見ご感想などいただければ幸いです)


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