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稲沢市・崇願寺 [高田の寺々]

昨日は僧侶の研修として稲沢の崇願寺(そうがんじ)へとお参りして参りました。
西尾張地方をバスに揺られあちこち移動したのですが、どこまでいっても平坦な土地が続き坂らしいところがありません。直線道路であればどこまでも見通せてしまうくらい。道の両側には様々な植木の苗が植わっていました。苗木の産地なのですね。

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崇願寺のまだ新しい本堂です。
聞けば崇願寺には数十軒のお檀家さんでもって、この立派な本堂を建てられたとのこと、ご門徒さんの篤い志がなければ、とてもかなうことではありません。ご住職・大澤弘道氏の柔らかで誠実なお人柄があってのことなのでしょう。

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崇願寺の歴史は古く、鎌倉時代(1248年)まで遡ります。
高田中興の祖・真慧上人の頃には有力末寺としてその記録に崇願寺の名が挙がるほどだありました。
江戸時代に移転もあり、更に明治24年には濃尾震災で当時の本堂は全壊。その後ずっと仮本堂でありましたが、平成26年に本堂は再建されたのです。


お稚児さんの募集してますよ [高田の寺々]

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大きな法要には祝賀の催しとして稚児行列が出されることがあります。
とはいえ、それほど大きな法要は本山でさえ数年に一回あるかないかと言った程度。
各地方の末寺(一般寺院)では数十年に一度あれば大したものというものです。

名古屋の高田派のお寺さんから稚児募集の案内をいただきました。
名古屋市名東区の蓮教寺です。
丁度、受付が始まったところのようです。
催しは4月24日日曜日。広々としていて大変立派なお寺ですので、行列もさぞ映えることでしょう。

詳しくはこちらのサイトにてご確認ください。
http://www.renkyouji.com/goonki_chigo.html

養樹寺 [高田の寺々]

豊川牛久保の養樹寺へ行って参りました。
ここには聖徳太子を祀った歴史ある太子堂があります。

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残念ながらご本尊の太子像は戦争中に盗まれてしまい、今はその後作られたものだそうです。
この日はご覧のように賑やかに荘厳され太子会法会が勤まりました。
養樹寺では毎年1月7日に太子会を営んでいるそうです。この辺りには家具屋、指物屋が多く、大勢みえた職人さん方にとっても聖徳太子は祖師として崇められ、そうした職人さん大工さんが主体となってこの太子会が行われそれはそれは賑やかだったそうです。
今日でも太子堂での勤行に続いて近所の幼稚園園児もあつまり餅投げ(お菓子もいっぱい投げます)が行われました。

私は午前、午後とお説教を仰せつかり、全くの付け焼刃ですが太子の発布された憲法十七条を訪ね、お話を聞いていただきました。
そして昨日の事、その時養樹寺にて私の話しを聞かれた方より応援メッセージの書かれたハガキが届き、思わぬプレゼントに本当に嬉しくなりました。
もっと勉強しよっと。

田原の東仙寺 [高田の寺々]

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昨日は田原の東仙寺へと出講でありました。ここの報恩講でお話させていただくのはもう25年も昔に遡ります。こちらの前住職・稲垣舜岳師は高田派を代表する学者でありました。その稲垣先生からお説教を頼むよとお願いされたのが30才に成るかならないかという頃。それから15年間毎年呼んでくださり、私の学びを促してくださったのです。
その稲垣先生が五年前に突然お亡くなりになり、私は先生を偲んで寺報に短い文を掲載しました。
ここにそれを転載します。今読み返してみて当時を懐かしく思い出しております。

「稲垣舜岳(いながきしゅんがく)先生御往生」 
 今年の本山お七夜十五日深夜、高田青少年会館に泊まっていらした稲垣舜岳先生が浴室で倒れられ、そのままお亡くなりになってしまわれました。正に諸行無常を身をもって示されたお姿でありました。ご存知のように稲垣先生にはこの正太寺に何度もご法話に来ていただきました。最後は確か私の住職拝命報告法会でのご法話だったと思います。伝えたいことが次々と頭に沸き起こるそのままにお話されようとする、いかにも学者タイプの方だったと思います。何より学ぶこと、確かめること、調べることに対して非常に真面目な方でした。
 私は稲垣先生に大変可愛がっていただき、先生の御自坊田原の東仙寺に十五年間毎年二日ずつ私に説教の機会を設けてくださいました。私は始めの内はそれまでに聞き貯めていた聴聞のノートを小出しにすることで乗り越えていましたが、貯めたものはすぐ終ってしまいます。「さあ、もう話すことが無い」という状態でしたが先生は許してくれません。「来年もお願いします」と呼び出されます。
 私は一年かけてせっせと本を読んだりラジオや新聞にネタを探したり、誠にお粗末な付け焼刃をそれでも仕方なく披露するしかありませんでした。先生はいつも皆さんの前に立って話をする私のすぐ左側に正座して聞いておられました。そして休憩時間などに座敷では質問をしてこられるのです。もう私などメロメロでありました。それでも「面白い」と褒めてくださることも多少あり、私のような宗門の学校を出ていない云わば亜流の者の発想を楽しんでいるようでもありました。ですから私もできるだけ奇抜な引用やヒット曲の詩などの紹介を用意して東仙寺に向かったものでした。
昨年の秋、ふいと先生から一枚の葉書が届きました。小さな字でびっしりと几帳面に書かれています。その内容は、先生が本屋で新井満氏の『自由訳・イマジン』という本を見つけ、早速買い求め読んでみたところその内容が大変興味深かったこと。この本に自分が関心を持ったのは、以前に私が東仙寺での法話の中でジョンレノンの『イマジン』という英語の詩を紹介したことがあり、それから『イマジン』に興味を持つようになったこと、そしてその縁の大切さをつくづく感じますということが丁寧に綴られていました。 
先生の学びに対する実直さと謙虚さを感じられる葉書であります。今となっては私への最後の教示でありました。この葉書は一生大切にしていきたい私の宝物とひとつとなりました。合掌
住職 悟道 
(ようこそようこそ 2010年 春号)より転載

阿漕平治の寺・上宮寺 [高田の寺々]

22日、23日と三重県津の上宮寺に出講
報恩講のお説教をもったいなくも務めて参りました。
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こちらのご住職には私がまだ二十代後半だった頃、高田本山でお世話になった方。写真では丁度、高座に登られたところ。

上宮寺は推古二年(593年)に聖徳太子23歳の時、諸国巡行の際、津(当時は安濃津という)において、紫雲たなびく光景をご覧になり一宇を建てられたのが始まりというそれはそれは歴史の古いお寺です。
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聖徳太子十六歳像

津の土産物に「平治煎餅」というものがございます。頭に被る笠の形をしたおせんべいです。素朴な味をしたおいしいものですが。
この平治煎餅が生まれる元となった大きな事件がその昔あったのです。
津に阿漕(あこぎ)という浜がありまして、そこは立派な魚がたくさん獲れる豊かな漁場です。ところがそこは伊勢神宮に奉納する鯛などを獲るための神聖な場として漁猟禁制が敷かれておりました。
そこに平治という男はこっそりと密漁を繰り返していたのです。それは病気の母を助けたい一心で行っていたともいわれます。
ある時、平治はその阿漕の浜に平治と名前の書かれた笠を忘れて来てしまい、それから足が着き召捕られ、なんと簀巻きにされ阿漕の海に沈められたのでした。
それからというもの、阿漕の海はさっぱり不漁となり、村には病人がたくさん出るようになり、人々は「平治の祟りだ」と怖れました。
そんな時、阿漕にありました上宮寺に平治の亡霊が現れ、己の苦しみを訴えます。上宮寺の西信律師によって成仏を遂げ、村に平穏が戻ったという。
この出来事から情け容赦のないことを「あこぎなこと」というようになるのです。
そしてこの平治の霊をなだめたのがここ上宮寺であります。

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