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プリンス逝去 [新聞、書籍より]

ミュージシャン・プリンスが亡くなったと早朝のニュースで報じられた。
「あのプリンスが・・・」
そして
「まだ57歳だったのか・・・」
ふたつの思いが浮かんだ。
プリンス538.jpg

80年代、MTV(音楽プロモーションビデオを紹介する番組)が大流行。当時、神的存在だったマイケルジャクソンに対して「イケてる人はこっちだぜ」といった風にプリンスはいたと思う。

危ない雰囲気を漂わせ(マイケルが『BAD]』で演出したアウトローな雰囲気などメッキにしか見えないくらい)
鼻に付くほど色気を漂わせ、当時世界中のアイドルだったシーラ・Eを見事に自分色に染め替え、その後のミュージックシーンに新しい流れを作り出したことに間違いはないでしょう。

もう30年以上も前にプリンスは日本公演を行った。私は大阪城ホールでのコンサートに行きました。
人気絶頂の時でしたので会場は始まる前から熱気に満ち、ステージに皆釘づけとなった。
そのツアーにはまだ10代の女性ドラマーが起用され話題となっており、コンサートの半ばで彼女のドラムソロが10分近くも演奏された。それはそれはエネルギッシュなビートの泉のようだった。ドラムソロが終わり会場からどっと拍手が湧いた。
数十秒後、再びドラムソロが始まった。私たちはドラムソロとしてのアンコールに応えてくれたのかと思い大喜びだったのだが、後日、雑誌の記事を見て驚いた。(当時インターネットなどありませんでしたから、雑誌は我々の重要な情報源だったのです)
一度目のドラムソロの時、プリンスは彼女の演奏に満足がいかず、すぐさま「One more」もう一度と命じ、二度目のドラムソロを客席の最前列に腰を掛けてチェックしていたというのです。
派手なパフォーマーとして知られたプリンスですが、そのプロ意識には改めて驚かされます。その時プリンスはまだ20代だったのですから。

最近のプリンスはどうしていたのか活動などしていたのかどうかなど、さっぱりご無沙汰だったところに今朝の一報です。プリンスと聞くとどうしても30年も昔にタイムスリップしてしまうのでした。
『1999』のCDがどこかにまだあるはずなので、今日はそれを聴くことにしよう。

安保法施行 [新聞、書籍より]

2016年3月29日
この日を忘れてはいけない。
いつの日か「あの日が始まりだったのか」と思いだすことなどないように。
そんな日がやって来ないためにも、音もなく覆われてしまった「戦わないという志」を忘れてはいけない。
昨日と今日と何も違わない、私の目にはそう映る。
その何も変わらない日々の中に恐ろしい心は染み入るように広がっている。
詩人はその影を追う。じっと見つめているその目の前を「戦争」は進んでいる。
宮尾節子の詩を紹介します。
文中の「明日」は本当にあしたなのかもしれない。

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明日戦争がはじまる 詩人・ 宮尾節子

まいにち

満員電車に乗って

人を人とも

思わなくなった


インターネットの

掲示板のカキコミで

心を心とも

思わなくなった


虐待死や

自殺のひんぱつに

命を命と

思わなくなった


じゅんび



ばっちりだ


戦争を戦争と

思わなくなるために

いよいよ

明日戦争がはじまる

ワンダー [新聞、書籍より]

ワンダー.JPG
『WONDER ワンダー』 RJパラシオ作 ホルプ出版


久しぶりの書籍紹介です。
これはひとりの十歳の普通の男の子オーガストのお話。でもオーガストの顔には障碍があってみんなをビックリさせちゃうくらい。それがオーガストを普通じゃない子としてしまうのです。
オーガストが産まれた時、とり上げた若い先生は気絶してしまったほど。
オーガストの顔について本文ではこのように説明されている。

(オーガストの目は、ふつうの目があるはずの位置より三センチも下についている。ほうのまんなか近くだ。極端な角度のたれ目は、縦にまっすぐナイフで切られた切り傷のように見える。左目は右目よりずっと下にある。眼球が入りきるだけの穴がなく、目玉が大きく外に飛び出している。上まぶたはいつも半分閉じていて、今にも眠ってしまいそうに見える。下まぶたのほうは、見えない糸に引っぱられてでもいるように、ものすごくたれている。裏返って、赤いところまで見える。眉毛もまつ毛もない、そして、鼻は顔と不釣り合いに大きく、ぼってり肉がついている。耳のあるべきところはへこんでいて、顔のまんなかあたりを両側から巨大なペンチでつぶされたみたいに見える。ほお骨はない。鼻のよう側から口まで続く深いしわのせいで、とろけた蠟のように見える。そんな目鼻だちだから、顔にやけどでもしたのかと思う人までいる。口蓋を治す手術を何度か受けたせいで、口のまわりにいくつも傷がある。なかでも、上くちびるのまんなかから鼻に続く深い傷がひときわめだつ。上の歯は小さすぎるし飛び出しているので、下の歯とちゃんとかみあっていない。そして極度にあごの骨が小さいために、あごもとても小さい。)

とこんな具合です。そんなオーガストが10歳にして初めて学校に通い始めるというところから物語は始まります。波乱が起きないわけがありません。オーガストを取り巻く人々の内面が丁寧に丁寧に描かれ、彼にとって試練は次々とやってきます。途中読み続けることが辛くなるほど厳しい状況も訪れますが、彼は彼なりの生き方を貫くことで、人々は変わってきます。そして最後は・・・・・・・(本のカバーに「きっと、ふるえる」とあったように、ふるえます)

私はこの本を読み進めながらオーガストを敬遠したり避けたり嫌ったりする自分と向き合うことになった。これはオーガストと彼の周りの子ども達の描写で描かれているのですが、実はそこに私自身の心にある、差別心や慢心、残虐な心が顔を出してくるのです。

この話は実話なのか創作なのか、読み始めの頃は気になりましたが、最後にはそれはどちらでも構わないと思うようになりました。それは読んでいる私が揺さぶられ試され、そして赦されるという道程を経験することこそが大切であると思うからです。

是非、皆さんにもこの『ワンダー』を経験していただきたい。本堂の書棚に置いておきます。


「安心・安全」の罪 改訂版 [新聞、書籍より]

重大な間違いをしておりました。今回事件の発端となった冷凍カツは「ビーフカツ」でした。私はカツカレーのカツだからトンカツであろうと勝手に思い込んでいたので、文中およびイラストを豚としてしまいました。 これでは棄てられたカツとなった牛たちにとって失礼極まりないことでありました。 よってここに一部訂正をして再度掲載いたします。


廃棄処分されるはずだった冷凍カツが横流しされ一般市場に出回るという事件が連日報道されている。
もちろん処理請負会社や横流しを引き受けた食品卸会社は相応の処罰を受けなければならないことであるが、私がそれよりも驚いたのは処分されるはずだった冷凍カツの量の多さである。
なんと五十八万枚!
「異物混入の恐れあり」ということでの処置であるが、今回の横流し発覚という事態が起きなければ、この大量の冷凍カツは誰の気にも留められず、堆肥や焼却処分となっていたわけです。
常に私たちの社会の片隅で大量の食べ物が廃棄され、ゴミとされている現実に申し訳なさを感じました。

58万枚のビーフカツを作るには一体どれくらいの肉が用いられたのだろう。試算してみよう。
一枚当たり50gとして580000枚を掛けると・・・なんと29トンもの肉が必要である。
牛何頭のいのちがむざむざと棄てられたことであろう。
いのちの処分牛さん510.jpg

いのちの処分509.jpg

 
「食品の安全のため」という理由以前に、こんなに大量の食品を一括で作らねばならない社会の仕組みが異様である。
これはいち企業の問題ではなく、私たちひとり一人が食べ物にいのちをいただいているという意識を持たなければ、やがてこの社会は崩れてゆくのではないかと不安になってきます。

食べ物を粗末にすることは罪であると教えられてきました。ご飯一粒も大切にしなければならないと。
今、世界中でこの罪を犯し、反省も痛みもない。私も他人事としか認識できません。
安心・安全そして便利で安価なサービスの向こうにいのちを提供してくれた生き物たちを思いたい。

ありがとうございます。そして申し訳ありません。


幽霊? ほとけさま? [新聞、書籍より]

もう報道されてから一週間も経ちますが、こんな見出しの記事が目に留まった
「被害者が枕元に立つ」と自首、82歳殺害で男逮捕
枕元に立つ人4942.jpg

およそ30年ほど前から一緒に暮らしていた内縁の妻(当時82歳)を男(当時50歳)が枕を顔に押し当てて窒息死させたのが二年前の夏。その時は事件とは扱われず、男は「保護責任者遺棄」として逮捕されたものの執行猶予処分となっていました。つまり介護の必要な妻を放っておいたので死んでしまったとみられたということです。

それから2年以上も過ぎた12月21日に男は警察署に自首してきました。
なんと内縁の妻を殺害後、男の枕元に亡き妻が現れるようになり、男は仕事も手に付かなくなり、観念したというのです。
男の言葉を信じれば亡き妻の幽霊が現れたということです。さぞ恨めしい顔をして迫ってきたのでしょう。
「う~ん、オカルト?」「怪談?」「四谷怪談・・・?」
私はこうした話を信じる方です、むしろ好きと言ってもいいです。
そして今回、ふと思ったことなのですが、この殺されてしまった妻は男が自首したことで「成仏」できたのだろうか?ということでした。
曠劫以来流転の身と云われる私たちです。
怨みを晴らせば成仏できるほど人間の業は軽いものではなかろうと思います。
それでも、いやそうであるからこそ阿弥陀さまは「あらゆるいのちあるものを必ず救う」という誓いを立てられたのであります。この内縁の夫に殺された女性にもその阿弥陀さまのおはたらきは届いていたはず。
もしそうであるならば、女性は殺されてからずっと阿弥陀様の救わんとされる御手から逃げ続けていたということだろうか。

そして今、私の合点のいくシナリオであります。
この女性は殺されてしまった後、救われるべき者として仏の一員と成られます。そして仏としてまず助けずにはいられない人間として30年苦楽を共にした夫ではなかったか。
そこでその仏は殺された当時の姿を借りて、男に改心を迫ろうと枕元に立ったのではなかったか。
男の良心を信じ、罪の償いをさせることで、わずかでも罪業を減らさせたいという慈悲の心です。
二年の歳月を要してこの度その仏の願いが叶ったと私は考えたい。
やがて男も成仏した暁にはこの女性と再び会い、感謝と喜びの分かち合うことであろう。

2015年も今日で終わる。大晦日にこんな記事を書きましたが、これはどうしても書いておきたかったのです。
来年は今年以上に忙しくなりそうです。大きな役目、私には抱えきれないことは分かっているのですが、これもご縁と引き受けてしまいました。ということで来年は「努力、努力」の一年となりそうです。

皆さま良いお年をお迎えください。
一年間のご愛顧ありがとうございました。




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