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天岸浄圓先生に惹きつけられた。 [高田本山]

先日は高田本山で今年度第一回目の布教伝道研修講座が開催されました。
高田本山の会議室を会場に天岸浄圓先生のお話を聞くという講座です。真面目なそして地味な催しですが満席となったのです。それは前日の新聞に小さいながら案内文が載ったこともあり、そしてなにより「天岸浄圓先生」のネームバリューでしょう。普段よりも多くの人が、そして普段とは違う顔ぶれが集われました。
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さていよいよ天岸先生のお話が始まりました。
「「至心信楽」というは、「至心」は真実と申すなり。真実と申すは如来の御ちかいの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし。清浄の心なし。濁悪邪見のゆえなり。・・・」(尊号真像銘文)
一文字一文字確かめるように、ゆっくりと、はっきりとご讃題を上げられます。
これは親鸞聖人の書かれた言葉一つ一つが阿弥陀仏のお心を表されたものであり、それを私の心で分かったとしてしまうと、それは私の心が作った阿弥陀仏にしてしまうことでありますと、自己の学びに対する厳しい姿勢でいらっしゃるからでした。

「至心(ししん)」とは真実であり、清浄な心である。それは私が不実であり、不浄なものであるということです。つまり至心とは「まこと」ということです。「まこ」とではないこの私に「まことをまことと受け取りなさい」との阿弥陀仏の心なのです。
このそのままに受け取るということが「信楽(しんぎょう)」であり。信楽を賜って、ようやく聞法の下地が出来上がったということなのです。
2016天岸浄圓先生2.jpg

念仏するということも、なぜするのか?どういう意味があるのか?どう称えたらいいのか?など人間が判断することが邪魔だという。
「なぜ、念仏するのか?」
「阿弥陀様が念仏せよとおっしゃるから」これ以上の理由も理屈もないというのです。
パカーンと頭を張ったかれたように感じました。天岸先生スゴイ。ありがとうございます。
もっと聞きたい、もっと聞きたい。会場の誰もが思っていたと思います。

あくる日、私のもとに一本の電話がありました。


それはこの日、天岸先生のお話を聞いてくださった、地元三重県の女性からでした。先生の話を聞き、いくつかメモをとったのだけれども、「生死を超える」という話の中で、年を取り介護されるようになることを「苦しみ」とするのは、私どものまなこがひっくり返っているからというところが、よくわからなくなってしまったので教えてほしいというのです。
「なんて、熱心な方だろう」と私は感服しながら、自分のメモ帳を開き「こういう風に私は聞き、メモしてあります」と互いの理解をすり合わせ、「そうでしたね」と電話先の声。私も「ああ、そうだったな」と気づかされ、ありがたいご縁でした。
聞けばこの女性。中日新聞に連載されていた五木寛之の「親鸞」を読んだことから真宗の話をもっと知りたいと思い、たまたま新聞で見かけた案内を見てこの日、高田本山に来られたとのこと。菩薩さまだなあ、この方は。南無阿弥陀仏。
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