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不退のくらい自然なり [仏・法・僧]

今月の法語カレンダーより、和訳正信偈の一節です。
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弥陀の誓いに帰しぬれば 不退のくらい自然なり


高田派でもっとも親しまれているご和讃がこちら、龍樹菩薩を讃嘆された一首。今月の法語にピタリと重なる内容となっています。
「不退のくらいすみやかに 得んとおもわんひとはみな 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」

「不退のくらい」とは、菩薩の修行がいよいよ完成目前にして、ここまで来たならば決して退転する(落っこちる)ことはないという領域のこと。それは厳しい修行を続けてきた者にとっては、この上なく喜ばしいことなので「歓喜地」とも呼ばれます。
そんな不退のくらいが、この私にも手の届くことになると説かれているのですが、それはどういうことなのでしょうか。
親鸞聖人は人間(自分)についてこのようにご覧になっています。
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して出離の縁あることなし」
つまり、罪重く、煩悩とひとつになったような私は永遠にこの迷いの世界から抜け出ることなどできないであろうということです。
その私が阿弥陀仏の願力によって、迷いの世界からさとりの世界へと往生することが、生きている間にも確定するということです。

「自然(じねん)なり」とは、もうすでに阿弥陀さまはこの私を抱きとめてくださっているということです。
これから救うとか、今から助けるというものではありません。
「もう、助けたぞ」という声が「南無阿弥陀仏」であります。


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