布教伝道大会2016 [高田本山]
先日、高田本山にて「布教伝道大会」なる催しがありました。
これは三名の布教使(師)が各人30分ずつ法話をするというもの。
一度に三名の味わいが比べられるという贅沢なひと時なのです。
ひとり目は鷲山了悟氏。
自身の闘病期にさまざまな思いに振りまわされたことを語られ、ついに「病気だっていいじゃないか」という心境に至った経緯を振り返り、それでも自分というものがアテにはならないことがあってようやく、阿弥陀さまの心に触れたお話を臨場感たっぷりにしてくれました。
ふたり目は浦井宗司氏。
こちらも昨年、大病をされたことを通して、人間の生への執着心のうごめく様を観察され、どうにも最後は「南無阿弥陀仏」であったと、深い話を聞かせていただきました。
締めは講師の葛野洋明(かどのようみょう)先生です。
先生がまだ若い頃に、今まさに死んで往かんとする人に対して言葉がないことに気付かれたこと。そこから自分が死ぬ時の理想形を語り、それでも思う通りにはいかないわが身であることを明らかにするとともに、「不期来迎(ふごらいごう)」について解説してくださいました。
「不期来迎」とは臨終の時に仏さまがお迎えに来ることを期待しないという意味です。
どんな終わり方であっても、阿弥陀様は決して見捨てたり、量ったりはしないことを教えられ、人間は安心して「ではお先に」と死んで往くことができるのです。
質疑応答もあり、とても充実した二時間でした。
これは三名の布教使(師)が各人30分ずつ法話をするというもの。
一度に三名の味わいが比べられるという贅沢なひと時なのです。
ひとり目は鷲山了悟氏。
自身の闘病期にさまざまな思いに振りまわされたことを語られ、ついに「病気だっていいじゃないか」という心境に至った経緯を振り返り、それでも自分というものがアテにはならないことがあってようやく、阿弥陀さまの心に触れたお話を臨場感たっぷりにしてくれました。
ふたり目は浦井宗司氏。
こちらも昨年、大病をされたことを通して、人間の生への執着心のうごめく様を観察され、どうにも最後は「南無阿弥陀仏」であったと、深い話を聞かせていただきました。
締めは講師の葛野洋明(かどのようみょう)先生です。
先生がまだ若い頃に、今まさに死んで往かんとする人に対して言葉がないことに気付かれたこと。そこから自分が死ぬ時の理想形を語り、それでも思う通りにはいかないわが身であることを明らかにするとともに、「不期来迎(ふごらいごう)」について解説してくださいました。
「不期来迎」とは臨終の時に仏さまがお迎えに来ることを期待しないという意味です。
どんな終わり方であっても、阿弥陀様は決して見捨てたり、量ったりはしないことを教えられ、人間は安心して「ではお先に」と死んで往くことができるのです。
質疑応答もあり、とても充実した二時間でした。
2016-04-28 23:00
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